朝日新聞ソウル捏造特派員…KCIAと組んだ反日謀略
吉田清治が朝日新聞で本格デビューを果たし日、黒幕の専任記者はソウルに極秘滞在していた。朝日首脳が必死に隠す、慰安婦捏造の舞台裏…そこに南鮮諜報機関との共同謀議が浮かび上がる。
「執筆者不明」という衝撃的な調査結果だった。朝日新聞による慰安婦捏造の出発点となった昭和57年(’82)の記事。それは小説家・吉田清治の関西講演を大々的に報じたものだ。
▽客席中央から撮影した吉田清治講演
吉田清治がマスコミ本格デビューを飾った歴史的な捏造記事である。その執筆担当記者について、朝日新聞は昨年9月末の「訂正記事」で、当時の大阪社会部の記者が名乗り出たと報じた。
「吉田氏の記事を書いたことが1度だけある。初報は自分が書いた記事かもしれない」
自ら名乗り出た割には曖昧で、不自然極まりない。新聞記者は日々雑多な記事を出稿する為、全ての執筆記事を覚えてはいない。しかし、問題の記事は、写真付き7段という大ボリュームだった。
▽計7段の問題記事'82年9月2日付
役所から貰ったデータを手直ししただけの統計モノや風物詩などのベタ記事とは異なる。非難する相手が存在する告発モノは、慎重に慎重を重ねて書く。約30年前であっても記憶がないハズはない。
「事前準備もなしに、これだけの記事を出稿できるものではない」
名乗り出た匿名記者は、その後、あっさりと否定した。会場に行って写真を撮影し、キャプションを書いたことは認めたが、記事は書いていないと供述を翻したのだ。
▽捏造紙幹部の居直り恫喝会見9月
さすがに捏造紙首脳部も、別の記者を悪者に仕立てるのは、無理があると感じたのだろう。しかし結局、誰が執筆したのか不明だという。戦前の記事ではなく、たかだか30年前の記事である…
捏造紙首脳部の最終判断は、記事の本当の執筆者を隠し通すことだった。力ずくでも隠す必要があったのだ。
【元取締役の経歴が不明…】
問題の講演記事を書いた記者は誰だったのか? 答えは、吉田清治に関する記事を繰り返し執筆した清田治史(はるひと)だ。最初に、本人が自供している。
「講演での話の内容は具体的かつ詳細で全く疑わなかった」
講演内容をそのまま信じたと話す。昨年8月5日の朝日新聞居直り特集に記載された発言だ。そこでは「大阪社会部の記者(66)」と匿名だが、それが清田治史であることはOBの証言でハッキリしている。
▽日韓学生フォーラム参加の清田治史'04年
事態が異様な展開を見せたのは、居直り特集掲載の約2ヵ月後だった。前述の「訂正記事」で朝日新聞は、この大阪社会部の元記者が、当時、海外に居たとして、発言を取り消したのである。
「元記者がその後、海外への渡航記録を調べたところ、大阪市内で講演のあった82年9月1日時点で国内にいなかったことが判明し、記憶違いであることが確認されました」
参照:朝日新聞’14年9月29日『慰安婦特集記事の一部を訂正します』
「講演を聞いて話を信じた」が、よく思い出すと、会場に行っていなかったという。支離滅裂な証言だ。パンチ処理で保存していた古いパスポートを見返したら、出国スタンプがあったとでも言いたいのか…
そして、朝日の「訂正記事」では、たまたま海外出張中だったかのような表現になっているが、実際は違った。昨年12月の第三者委員会の調査報告で、新たな事実が判明する。
▽会見するお友達委員会12月(産経)
「当初執筆者と目された清田治史は記事掲載の時点では韓国に語学留学中であって執筆は不可能であることが判明」
参照:朝日新聞12月22日『第三者委員会報告書・全文』(PDF)
なんと清田治史は、問題の吉田講演記事が掲載された時、南朝鮮に留学中だったのである。清田は、取締役にまで昇り詰めたトップ・エリート。元幹部の社内履歴を朝日新聞社側が知らないことは有り得ない。
朝日新聞は、清田の南鮮留学歴を敢えて伏せたのだ。なぜ徹底隠蔽の道を選んだのか…そこから、慰安婦捏造をめぐる重大な疑惑が浮かび上がってくる。
【ソウルから恨を込めて】
「早稲田大学政治経済学部卒業、ハーバード大日米プログラム客員研究員」
昨年8月まで教授として囲われていた帝塚山学院大の経歴欄に、清田治史の南鮮留学歴は記されていなかった。留学は教授職にとって箔付けになるはずだが、隠す必要でもあったのか…
▽消去前の同大学HP
清田の経歴を洗う作業の末、著作者情報の中に留学歴が含まれていることが判明した。日外アソシエーツの著書・著者データ。それによると、清田が留学していたのは、韓国・ソウルにある延世大だ。
ただし、この情報にも少し細工が施されている。ソウル支局長を務めた後で留学したかのように列記されているが、実際は、第三者委員会のリポート通り、1982年だ。
▽紀伊国屋Web著書紹介欄
細かい時期も、ほぼ特定することが出来た。清田治史が南鮮留学する前年の1981年9月から、あの悪名高い若宮啓文が、ソウル延世大韓国語学堂に留学していた。期間は1年だったという。
参照:朝日新聞『若宮啓文「風考計」筆者からひとこと』
その後を継ぐようにして、若宮の1年後輩である清田がソウルに渡った。在学期間は同様に、82年9月から1年間だろう。つまり、問題の吉田講演記事が掲載されたのは、清田の南鮮入り直後となる。
▽清田の前任者だった若宮啓文(BSフジ)
執筆記者不明のミステリー。だが種明かしすると実に単純だ。留学準備で同年8月からソウルにいた清田が元原稿を支局から送稿したのである。それが不可能ではないことは、記事を読めば直ぐに分かる。
「約五百人の参加者はしんとして聴き入った」「約一時間、淡々と、ときに苦悩を色をにじませながら話す吉田さんは」
計7段という大ボリュームの記事で、講演の風景を描写した部分は、上記の2ヵ所だけだ。記事の殆どは、吉田清治の小説第2作の活劇パートを丸写ししたもので、閉演後の吉田の感想コメントもない。
▽記事は小説第2作の内容紹介に終始
これならば実際に講演に足を運ばなくても書ける。記者は往々にして、時間や人数を「◯」にして、後で数字を書き込む予定稿を作成する。そして事後に、デスクや別の記者が微調整すれば完成だ。
清田治史は出国前に吉田清治と濃密に接触。講演内容が小説のストーリーから逸れないことを確認し、予定稿を仕上げた…実に簡単なトリックである。
なぜ朝日新聞首脳部は、無様な「訂正記事」を出してまで清田治史を守り、ソウル留学の事実を隠蔽したか…恐らく、それは裏留学とも言える清田のソウル派遣にダークな側面があった為だ。
【対立の果ての手打ち劇】
「私たちも興奮した学生側に銃を突き付けられ、相当に危険な状況を迎えたり、KCIAに検束されたりしました」
光州事件を現地取材した元朝日新聞記者・斉藤忠臣氏は、そう語る。1980年5月のことだ。朝日記者は、南鮮取材で情報当局者に拘束される非常事態にも直面していたのである。
当時、我が国のメディアは一応に全斗煥政権を批判したが、その中でも朝日新聞は、痛烈な非難を浴びせた。学生側=正義、軍事政権=悪という構図で、徹底的に叩いたのだ。
▽戒厳令拡大伝える捏造紙'80年5月18日付
「我われも原稿を東京に電話送稿したのですが、途中で何度も切られました。盗聴されていて都合の悪い部分になると切ってしまうのです」
朝日新聞ソウル支局は、南鮮国家安企部(旧KCIA)から絶え間なくプレッシャーを受けていた。現在のパク政権による厚遇ぶりとは雲泥の差だ。更に、斉藤元記者は、こう明かす。
「写真の電送もソウルから米国のAPにいったん送り、APから朝日・東京へ迂回するという手段をとりました」
参照:民主化を求めた光州事件の教訓―その取材記から(PDF)
写真すら送れない異様な状況は、事件が先鋭化する中の一幕に違いない。だが、全斗煥政権は朝日新聞を敵として完全マーク。斉藤元記者の入国禁止措置が解けたのは、90年代になってからだという。
▽光州事件報じる捏造紙1面'80年5月22日付
光州事件以降、学生側の反発は激化し、朝日新聞による政権批判も続いた。そんな頃、清田治史はソウルの延世大に留学したのだ。若宮啓文に至っては事件の翌年だった。不自然である。
南鮮軍事政権が学生に対する監視を強化する中、最も警戒する日本メディアの現役記者が首都の大学に入学する…行動は自由で学生との接触も簡単だ。当局は何故、学生ビザを容易く発給したのか?
合意の上だったと考えるのが妥当だろう。清田治史や若宮啓文は、南鮮情報当局のお墨付きを貰って、長期滞在が許されたのだ。
【KCIAと組んだ反日謀略】
1973年夏に発生した金大中事件。都心部のホテルで要人を拉致し、神戸から偽装船で公海上に逃亡する…その大掛かりな作戦を実行したのが、南鮮の情報機関KCIAだった。
▽金大中事件伝える捏造紙1面
前代未聞の事件に沸き立つ我が国のメディアに対し、クネ父・朴正煕は慌てふためく。そして、KCIAの犯行をスクープした読売新聞のソウル支局を閉鎖するなど強硬手段に打って出た。
この時も南鮮バッシングの急先鋒となったのが朝日新聞だった。74年に東京の南鮮大使館がまとめた極秘文書「業務現況」は、サンケイ新聞を高く評価する一方、朝日新聞を厳しく批判していた。
▽南鮮在京大使館作成「業務現況」
朴正煕政権は一時、朝日新聞の南鮮空輸を禁止する措置も検討したという。その一方でクネ父は、圧力と同時に懐柔策も進めた模様だ。南の不穏な動きを探ってい北鮮側は、こう告発している。
「第一線ジャーナリストに対する工作も執拗に続けられた。大阪府警詰の各新聞社の記者が民団大阪本部を通じてなされたKCIAの招待で全費用招待側負担の“観光旅行”に出かけたのは七五年の六月のことであった」(『これがKCIAだ「韓国中央情報部」黒書』123頁)
76年に東京で開かれた南鮮議員の会合には、朝日新聞だけ頭ひとつ飛び抜けた17人を招待。また対日工作の大物・李秉禧(イ・ビョンヒ)が朝日首脳部と都内で極秘会談するケースも確認できたという。
▽北朝鮮を礼賛する捏造紙(file)
北鮮を「労働者の楽園」と褒め称え、南鮮を「暗黒の独裁国家」と罵倒していた朝日新聞。しかし、南鮮の工作機関と思惑が一致する部分もあった。それが“朝鮮人強制連行”のプロパガンダだ。
南鮮政権が「圧力と対話」で臨む中、朝日新聞は“強制連行”捏造で手打ちを図ったのではないか? あの吉田清治が、まず朝鮮男の“強制連行加害者”として自らを売り出したことを忘れてはいけない。
参照:3月24日『吉田清治と踊ったKCIA…民潭の“強制連行”覚書』
▽清田執筆の「ひと欄」83年11月10日付
恐らく、捏造紙大阪社会部にいた清田治史は、民潭大阪の紹介で都内在住の吉田清治と知り合った。そしてプロパガンダ工作に携わり、KCIAの庇護のもとソウルに招かれた…
82年9月から1年間のソウル滞在で、清田がどのような“
教育”を受けたのか、実態は闇の中だ。しかし、帰国した清田は、立て続けに吉田関連の記事を執筆、83年末には一緒に南鮮入りする。
▽帰国直後の吉田関連記事
これは、団塊サヨクのマヌケな記者が、妄想過多の三流小説家に騙されたといった単純な話ではない。ゾルゲ事件の反省もなく、朝日新聞が組織ぐるみで外国情報機関と組んだ謀略なのだ。
「この件に関しては新聞社が判断していますから、私があれこれ話すべきではない」
昨年秋、週刊誌の追及を受けた清田治史はノーコメントを貫き、突然のように大学を辞職、公の場から姿を消した。同時に、捏造紙側も幼稚な言い訳をした後、清田に関して完全に沈黙している。
背後にある謀略が明るみになれば、朝日新聞は一瞬で絶命する。すべての捏造紙記者とその取り巻き連中に警告しよう。
捏造慰安婦事件は現時点で「報道の問題」とされているが、それは次の段階に進む為の最初のステップに過ぎない。
〆
最後まで読んで頂き有り難うございます
クリック1つが敵に浴びせる銃弾1発となります
↓

参照:
□日本政策研究センター『朝日新聞「慰安婦報道」に対する 独立検証委員会』(PDF)
□朝日新聞12月22日『第三者委員会報告書・別紙資料1(取り消した記事)』(PDF)
□紀伊国屋書店Web『北朝鮮問題をどう解くか―東アジアの平和と民主主義のために』
参考記事:
□CNN2014年10月4日『Japan’s newspaper scandal leaves international feud』
□ZAKZAK11月26日【新展開 慰安婦問題】朝日が削除しなかった吉田証言「朝鮮人強制連行証言」の疑義
□ZAKZAK11月29日【新展開 慰安婦問題】「朝鮮人強制連行」の虚実は触れたくないパンドラの箱
「執筆者不明」という衝撃的な調査結果だった。朝日新聞による慰安婦捏造の出発点となった昭和57年(’82)の記事。それは小説家・吉田清治の関西講演を大々的に報じたものだ。
▽客席中央から撮影した吉田清治講演
吉田清治がマスコミ本格デビューを飾った歴史的な捏造記事である。その執筆担当記者について、朝日新聞は昨年9月末の「訂正記事」で、当時の大阪社会部の記者が名乗り出たと報じた。
「吉田氏の記事を書いたことが1度だけある。初報は自分が書いた記事かもしれない」
自ら名乗り出た割には曖昧で、不自然極まりない。新聞記者は日々雑多な記事を出稿する為、全ての執筆記事を覚えてはいない。しかし、問題の記事は、写真付き7段という大ボリュームだった。
▽計7段の問題記事'82年9月2日付
役所から貰ったデータを手直ししただけの統計モノや風物詩などのベタ記事とは異なる。非難する相手が存在する告発モノは、慎重に慎重を重ねて書く。約30年前であっても記憶がないハズはない。
「事前準備もなしに、これだけの記事を出稿できるものではない」
名乗り出た匿名記者は、その後、あっさりと否定した。会場に行って写真を撮影し、キャプションを書いたことは認めたが、記事は書いていないと供述を翻したのだ。
▽捏造紙幹部の居直り恫喝会見9月
さすがに捏造紙首脳部も、別の記者を悪者に仕立てるのは、無理があると感じたのだろう。しかし結局、誰が執筆したのか不明だという。戦前の記事ではなく、たかだか30年前の記事である…
捏造紙首脳部の最終判断は、記事の本当の執筆者を隠し通すことだった。力ずくでも隠す必要があったのだ。
【元取締役の経歴が不明…】
問題の講演記事を書いた記者は誰だったのか? 答えは、吉田清治に関する記事を繰り返し執筆した清田治史(はるひと)だ。最初に、本人が自供している。
「講演での話の内容は具体的かつ詳細で全く疑わなかった」
講演内容をそのまま信じたと話す。昨年8月5日の朝日新聞居直り特集に記載された発言だ。そこでは「大阪社会部の記者(66)」と匿名だが、それが清田治史であることはOBの証言でハッキリしている。
▽日韓学生フォーラム参加の清田治史'04年
事態が異様な展開を見せたのは、居直り特集掲載の約2ヵ月後だった。前述の「訂正記事」で朝日新聞は、この大阪社会部の元記者が、当時、海外に居たとして、発言を取り消したのである。
「元記者がその後、海外への渡航記録を調べたところ、大阪市内で講演のあった82年9月1日時点で国内にいなかったことが判明し、記憶違いであることが確認されました」
参照:朝日新聞’14年9月29日『慰安婦特集記事の一部を訂正します』
「講演を聞いて話を信じた」が、よく思い出すと、会場に行っていなかったという。支離滅裂な証言だ。パンチ処理で保存していた古いパスポートを見返したら、出国スタンプがあったとでも言いたいのか…
そして、朝日の「訂正記事」では、たまたま海外出張中だったかのような表現になっているが、実際は違った。昨年12月の第三者委員会の調査報告で、新たな事実が判明する。
▽会見するお友達委員会12月(産経)
「当初執筆者と目された清田治史は記事掲載の時点では韓国に語学留学中であって執筆は不可能であることが判明」
参照:朝日新聞12月22日『第三者委員会報告書・全文』(PDF)
なんと清田治史は、問題の吉田講演記事が掲載された時、南朝鮮に留学中だったのである。清田は、取締役にまで昇り詰めたトップ・エリート。元幹部の社内履歴を朝日新聞社側が知らないことは有り得ない。
朝日新聞は、清田の南鮮留学歴を敢えて伏せたのだ。なぜ徹底隠蔽の道を選んだのか…そこから、慰安婦捏造をめぐる重大な疑惑が浮かび上がってくる。
【ソウルから恨を込めて】
「早稲田大学政治経済学部卒業、ハーバード大日米プログラム客員研究員」
昨年8月まで教授として囲われていた帝塚山学院大の経歴欄に、清田治史の南鮮留学歴は記されていなかった。留学は教授職にとって箔付けになるはずだが、隠す必要でもあったのか…
▽消去前の同大学HP
清田の経歴を洗う作業の末、著作者情報の中に留学歴が含まれていることが判明した。日外アソシエーツの著書・著者データ。それによると、清田が留学していたのは、韓国・ソウルにある延世大だ。
ただし、この情報にも少し細工が施されている。ソウル支局長を務めた後で留学したかのように列記されているが、実際は、第三者委員会のリポート通り、1982年だ。
▽紀伊国屋Web著書紹介欄
細かい時期も、ほぼ特定することが出来た。清田治史が南鮮留学する前年の1981年9月から、あの悪名高い若宮啓文が、ソウル延世大韓国語学堂に留学していた。期間は1年だったという。
参照:朝日新聞『若宮啓文「風考計」筆者からひとこと』
その後を継ぐようにして、若宮の1年後輩である清田がソウルに渡った。在学期間は同様に、82年9月から1年間だろう。つまり、問題の吉田講演記事が掲載されたのは、清田の南鮮入り直後となる。
▽清田の前任者だった若宮啓文(BSフジ)
執筆記者不明のミステリー。だが種明かしすると実に単純だ。留学準備で同年8月からソウルにいた清田が元原稿を支局から送稿したのである。それが不可能ではないことは、記事を読めば直ぐに分かる。
「約五百人の参加者はしんとして聴き入った」「約一時間、淡々と、ときに苦悩を色をにじませながら話す吉田さんは」
計7段という大ボリュームの記事で、講演の風景を描写した部分は、上記の2ヵ所だけだ。記事の殆どは、吉田清治の小説第2作の活劇パートを丸写ししたもので、閉演後の吉田の感想コメントもない。
▽記事は小説第2作の内容紹介に終始
これならば実際に講演に足を運ばなくても書ける。記者は往々にして、時間や人数を「◯」にして、後で数字を書き込む予定稿を作成する。そして事後に、デスクや別の記者が微調整すれば完成だ。
清田治史は出国前に吉田清治と濃密に接触。講演内容が小説のストーリーから逸れないことを確認し、予定稿を仕上げた…実に簡単なトリックである。
なぜ朝日新聞首脳部は、無様な「訂正記事」を出してまで清田治史を守り、ソウル留学の事実を隠蔽したか…恐らく、それは裏留学とも言える清田のソウル派遣にダークな側面があった為だ。
【対立の果ての手打ち劇】
「私たちも興奮した学生側に銃を突き付けられ、相当に危険な状況を迎えたり、KCIAに検束されたりしました」
光州事件を現地取材した元朝日新聞記者・斉藤忠臣氏は、そう語る。1980年5月のことだ。朝日記者は、南鮮取材で情報当局者に拘束される非常事態にも直面していたのである。
当時、我が国のメディアは一応に全斗煥政権を批判したが、その中でも朝日新聞は、痛烈な非難を浴びせた。学生側=正義、軍事政権=悪という構図で、徹底的に叩いたのだ。
▽戒厳令拡大伝える捏造紙'80年5月18日付
「我われも原稿を東京に電話送稿したのですが、途中で何度も切られました。盗聴されていて都合の悪い部分になると切ってしまうのです」
朝日新聞ソウル支局は、南鮮国家安企部(旧KCIA)から絶え間なくプレッシャーを受けていた。現在のパク政権による厚遇ぶりとは雲泥の差だ。更に、斉藤元記者は、こう明かす。
「写真の電送もソウルから米国のAPにいったん送り、APから朝日・東京へ迂回するという手段をとりました」
参照:民主化を求めた光州事件の教訓―その取材記から(PDF)
写真すら送れない異様な状況は、事件が先鋭化する中の一幕に違いない。だが、全斗煥政権は朝日新聞を敵として完全マーク。斉藤元記者の入国禁止措置が解けたのは、90年代になってからだという。
▽光州事件報じる捏造紙1面'80年5月22日付
光州事件以降、学生側の反発は激化し、朝日新聞による政権批判も続いた。そんな頃、清田治史はソウルの延世大に留学したのだ。若宮啓文に至っては事件の翌年だった。不自然である。
南鮮軍事政権が学生に対する監視を強化する中、最も警戒する日本メディアの現役記者が首都の大学に入学する…行動は自由で学生との接触も簡単だ。当局は何故、学生ビザを容易く発給したのか?
合意の上だったと考えるのが妥当だろう。清田治史や若宮啓文は、南鮮情報当局のお墨付きを貰って、長期滞在が許されたのだ。
【KCIAと組んだ反日謀略】
1973年夏に発生した金大中事件。都心部のホテルで要人を拉致し、神戸から偽装船で公海上に逃亡する…その大掛かりな作戦を実行したのが、南鮮の情報機関KCIAだった。
▽金大中事件伝える捏造紙1面
前代未聞の事件に沸き立つ我が国のメディアに対し、クネ父・朴正煕は慌てふためく。そして、KCIAの犯行をスクープした読売新聞のソウル支局を閉鎖するなど強硬手段に打って出た。
この時も南鮮バッシングの急先鋒となったのが朝日新聞だった。74年に東京の南鮮大使館がまとめた極秘文書「業務現況」は、サンケイ新聞を高く評価する一方、朝日新聞を厳しく批判していた。
▽南鮮在京大使館作成「業務現況」
朴正煕政権は一時、朝日新聞の南鮮空輸を禁止する措置も検討したという。その一方でクネ父は、圧力と同時に懐柔策も進めた模様だ。南の不穏な動きを探ってい北鮮側は、こう告発している。
「第一線ジャーナリストに対する工作も執拗に続けられた。大阪府警詰の各新聞社の記者が民団大阪本部を通じてなされたKCIAの招待で全費用招待側負担の“観光旅行”に出かけたのは七五年の六月のことであった」(『これがKCIAだ「韓国中央情報部」黒書』123頁)
76年に東京で開かれた南鮮議員の会合には、朝日新聞だけ頭ひとつ飛び抜けた17人を招待。また対日工作の大物・李秉禧(イ・ビョンヒ)が朝日首脳部と都内で極秘会談するケースも確認できたという。
▽北朝鮮を礼賛する捏造紙(file)
北鮮を「労働者の楽園」と褒め称え、南鮮を「暗黒の独裁国家」と罵倒していた朝日新聞。しかし、南鮮の工作機関と思惑が一致する部分もあった。それが“朝鮮人強制連行”のプロパガンダだ。
南鮮政権が「圧力と対話」で臨む中、朝日新聞は“強制連行”捏造で手打ちを図ったのではないか? あの吉田清治が、まず朝鮮男の“強制連行加害者”として自らを売り出したことを忘れてはいけない。
参照:3月24日『吉田清治と踊ったKCIA…民潭の“強制連行”覚書』
▽清田執筆の「ひと欄」83年11月10日付
恐らく、捏造紙大阪社会部にいた清田治史は、民潭大阪の紹介で都内在住の吉田清治と知り合った。そしてプロパガンダ工作に携わり、KCIAの庇護のもとソウルに招かれた…
82年9月から1年間のソウル滞在で、清田がどのような“
教育”を受けたのか、実態は闇の中だ。しかし、帰国した清田は、立て続けに吉田関連の記事を執筆、83年末には一緒に南鮮入りする。
▽帰国直後の吉田関連記事
これは、団塊サヨクのマヌケな記者が、妄想過多の三流小説家に騙されたといった単純な話ではない。ゾルゲ事件の反省もなく、朝日新聞が組織ぐるみで外国情報機関と組んだ謀略なのだ。
「この件に関しては新聞社が判断していますから、私があれこれ話すべきではない」
昨年秋、週刊誌の追及を受けた清田治史はノーコメントを貫き、突然のように大学を辞職、公の場から姿を消した。同時に、捏造紙側も幼稚な言い訳をした後、清田に関して完全に沈黙している。
背後にある謀略が明るみになれば、朝日新聞は一瞬で絶命する。すべての捏造紙記者とその取り巻き連中に警告しよう。
捏造慰安婦事件は現時点で「報道の問題」とされているが、それは次の段階に進む為の最初のステップに過ぎない。
〆
最後まで読んで頂き有り難うございます
クリック1つが敵に浴びせる銃弾1発となります
↓

参照:
□日本政策研究センター『朝日新聞「慰安婦報道」に対する 独立検証委員会』(PDF)
□朝日新聞12月22日『第三者委員会報告書・別紙資料1(取り消した記事)』(PDF)
□紀伊国屋書店Web『北朝鮮問題をどう解くか―東アジアの平和と民主主義のために』
参考記事:
□CNN2014年10月4日『Japan’s newspaper scandal leaves international feud』
□ZAKZAK11月26日【新展開 慰安婦問題】朝日が削除しなかった吉田証言「朝鮮人強制連行証言」の疑義
□ZAKZAK11月29日【新展開 慰安婦問題】「朝鮮人強制連行」の虚実は触れたくないパンドラの箱
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この記事へのコメント
今年(2015年)3月、二人のコンビ名やネタが原爆投下の暗喩など「日本に対する侮辱」であるとの怪情報がネット上で飛び出した。
コンビ名の「8.6」が広島に原爆が投下された「8月6日」に由来し、ネタのフレーズ「ラッスンゴレライ」はアメリカ軍が原爆を落とす際の号令の暗喩である「落寸号令雷」を意味するというものだ。また、二人のおそろいの赤い衣装は米軍をイメージ(ヒット曲『放射能』などで知られるクラフトワークとの説もあり)し、サングラスはダグラス・マッカッサー。決めポーズは広島の平和記念公園にある「原爆の子の像」をモチーフにしているという。
どう考えても強引なこじつけにしか思えず、当初は一笑に付されていた。
ところが、メンバーの「はまやねん」の学生時代のものとされるブログやツイッターが発掘されると状況が一変。ツイッターには「日本オワタ。中国と韓国とロシアに一気に攻め込まれる(笑)植民地ぷぎゃあ」などという記述があり、ブログにはミニ番組『世界の車窓から』(テレビ朝日系)が面白いという話題から「日本はクソって思える番組やから幸せ」などと書き込まれていた。また、広島の原爆ドームの前で嬉しそうにダブルピースで記念撮影している写真もブログから見つかっている。
さらには、日本に原爆を落とした米軍の「エノラゲイ」と同型のB29爆撃機「チョットマッテ」が存在することも判明。B29は日本人を揶揄する意味で日本語由来の機体名が複数存在していたのだが、8.6秒バズーカーのネタには「ちょっとまって、お兄さん」というフレーズがあるため、これも疑惑を深める要因になった。
だが、問題のツイッターアカウントは騒動後に「鍵付き」になり、ブログの記述も一部が消去。8.6秒バズーカーの公式アカウントに仲間たちとの写真入りで「8月6日になんか出来るようになりたいなー!」と書かれたツイートも「原爆の日を祝っている」と疑われていたが、こちらも削除されてしまった。
本当に忙しくて騒動に構っていられないなら削除などしているヒマはないだろう。ブログやツイッターも無関係なら放置していればいいだけだ。少なくとも炎上騒ぎを認識し、何かしらの意図があって動いている可能性は高まっている。
慰安婦問題で誤りがあったことを形の上では謝罪している朝日新聞ですが、その後の一連の報道を観察するにつけ、路線をかえ真実の報道に徹する姿勢からは程遠い報道ぶりです。何が朝日をここまで憎日にさせているのか背景の解明が待たれます。
朝日の実態解明に期待します。
最近、大塚製薬・ポカリスエット イオンウォーターのコマーシャルで、日本人が見たら誰もがおかしいと首を傾げざるを得ない妙なお辞儀をしているものがあると言われている。
女性がヘソのあたりで手を組み、肘を張って頭を下げるものだ。確かに、今まで見たことがないような不思議でおかしなお辞儀であり、日本人なら誰が見ても違和感を感じる。
「日本のお辞儀ではない」「あまりにも不自然だ」
こんな声の中に、「これは韓国のコンスと呼ばれているものではないのか?」という声が出ている。韓国のコンスというのは、まさにこの腹痛を耐えて上半身を折る「腹痛ポーズ」と呼ばれるお辞儀をするのである。
誰がどう見ても、このコマーシャルの女性がしているのは、日本式ではなく、韓国式のものであると分かる。
このコマーシャルを見て「このお辞儀はおかしい。日本のものではない」と気付くのは社会経験がある人間だ。学生や子供が見ると、これを無批判に受け入れる。
そして、子供たちや学生は「これが正しいのだ」と思って、いつしかそのようなお辞儀をするようになっていき、日本式から韓国式へと日本の文化がすり変わっていく。
つまり、テレビによる「文化乗っ取り」が洗脳として行われていることになる。
巧妙なのはそれが「韓国のもの」とは一言も説明せず、またコマーシャルの内容自体も韓国とは何の関係もなく、まったく韓国を意識させないまま、国民を韓国式に導いているという部分である。
意識しないままそれに染まり、いつしか日本人は無意識に韓国式を真似て、最後には韓国式が当たり前のような状況に持っていく。
コマーシャルにこのような腹痛ポーズのお辞儀を自然に組み込むことによって、自然と「文化乗っ取り」が完成するようになっている。
テレビと言えば、2009年から2011年までの民主党政権時代から韓流という「韓国文化強制」が行われて、2011年にはフジテレビに激しい抗議デモが行われたことがあった。
あれから露骨な韓流は少し影を潜め、代わりに大塚製薬のコマーシャルのような洗脳レベルのもので「文化乗っ取り」を陰湿に進めるようになったようだ。
腹痛ポーズのお辞儀。韓国のコンスというのは、まさにこの腹痛を耐えて上半身を折る「腹痛ポーズ」と呼ばれるお辞儀をするのである。
つまり、テレビに自分の脳が乗っ取られるのだ
ソフトバンクは、日本人の父親をイヌに見立てたコマーシャルを延々と流し続けた。それによって、「日本人=イヌ」の洗脳を日本人に刷り込んでいると指摘されている。
「ソフトバンク・CM・侮辱」でグーグルで検索すると、多くの人がこれに疑問を感じ、激しい怒りをこの会社に感じている現状が見えてくる。
これほど問題があるコマーシャルなのに、まったくメディアではそのおかしさが取り上げられない。ソフトバンク自体が巨大なメディア企業であり、広告主なので、メディアがそれを批判することは絶対にできないと言われている。
今のテレビは、このようにして無意識に「日本人を貶める」ものや「文化乗っ取り」をするものが流されていることが分かっている。
犬が「かわいい」かそうでないかという話を問題にしているのではない。
本来であればペットとして出てこなければならない犬が、「日本人の父親は犬」という設定で刷り込みが行われている非常識を問題にしている。
非常識であると共に、常軌を逸していると言える。
この企業は、莫大な金を投下して「日本人の父親は犬」という徹底的な宣伝をしているのだから、どう考えても感覚がおかしいとしか言いようがない。
こんなコマーシャルを平気で流しているテレビも企業も、感覚がどこか普通ではない。
「なぜこんな設定にしたのか」、あるいは「批判がある中で、それを執拗に粘着的に続ける理由が何なのか」は、この会社のトップしか真意が分からないことだ。
私たちに分かるのは、日本人の家族観をズタズタにするようなコマーシャルが、あたかも日本人の子供たちを洗脳するかのように行われているということである。
「日本人女性が結婚する相手は犬だ」
「日本人の男は犬だ」
その暗喩に侮蔑的な意味を感じる人は少なくないし、薄気味悪い感覚や、底知れぬ不快感を感じる人もたくさんいる。
このような刷り込みを続けるコマーシャルを、何年もかけて大量に流し続ける企業は本当に有益な企業なのか、私たちはもっと深く考えなければならないときが来ている。
決して放置してはいけないものであるし、見過ごしてもいけないものでもある。
日本人の父親を犬扱いするコマーシャルは、どうしても子供たちが見る。見せないわけにはいかないほどの物量でコマーシャルが大量投下されている。
だから、私たちは子供たちに、「父親を犬畜生扱いしたコマーシャルを見せない」という選択ができない。
ベストセラー、「スクール・ウォーズ」、作者が語るーーー
馬場信浩
『私はなぜ、「朝日」、を訴えたのか』
ベストセラー作家が滞米25年で始めて味わった屈辱、それがグレンデール市、「慰安婦」、像建設だった。そして、今、日本人の名誉のため、朝日新聞の米紙での謝罪広告掲載を求めて立ちあがったーーー
《屈辱の日》ー公正なきグレンデール市議会
ここでグレンデール市の慰安婦像設置に関する、公聴会がいかに酷いものだったかにつき、その模様が書かれています。
・・・実は始まる前の会場の雰囲気から、「これは負ける」、と感じていました。なぜなら、グレンデール市長。元市長、議員らの態度が日本側と韓国側で全く違っていたからです。
彼らは韓国人に対してはハグしたり握手したり、ニコニコと挨拶を交わしていました。一方、日本人席に飛んでくるのは冷たい視線でした。彼らが韓国人をどのように扱うか。日本人をどのように見るか、ということを知って、いかに韓国側がグレンデール市に浸透しているか、垣間見ました。
ーー出来レースですね。
馬場・・断言はしませんが、そう思われてもおかしくない、実際、陳述後、私たちは驚くべき体験をすることになります。
元市長(当時は現職の市議、慰安婦像建立後市議を引退)、が一言しゃべらせろと割り込むようにして、「今日集まってきた日本人は歴史を勉強しているのか」、「日本政府も認めている、(河野談話のことを言っている)、などと延々と説教を始めたのです。その中で私にとって晴天の霹靂だったのは、「日本の議会が認めているではないか。日本の36の自治体が慰安婦への謝罪と賠償を求める決議を上げているではないか」、という指摘でした。
すると、次の瞬間、木槌をカツンと叩かれました。映画などで法定の机に置かれている木槌をご覧になったことがあるでしょう。あれを叩いて鳴り響かせたのです。
それはまるで後頭部を殴られたような気がしたほど、精神的なショックを我々に与えました。白人は日本人を叱りつけたら、シュント黙り込むということを知っているんですね。80人の日本人の多くが下を俯きました。
私と家内は頭を上げたままでしたので壇上から丸見えになりました。「ノー」、と言った私を睨みつけて、「もう一度言ったら退場させるぞ」、と恫喝しました。
《なんだやっているのは朝日新聞じゃないか》
ーー公正などどこにもないですね
馬場・・さすがに啖呵切って席を立って帰ろうか、とも思いましたが評決を聞くまでは我慢しようと。
悔しくて涙が出そうでした。在米20余年でこんな扱いを受けたのは初めてでした。結果は予想通り、我々の意見は聞き入れられず、慰安婦像が建てられることになってしまいました。
私と家内はフリーウエイを飛ばして帰宅しました。ハンドルを握る私の手は屈辱感にガタガタと震えていました。いま思い出しても震えがくるくらい衝撃的な一日でした。
馬場・・その屈辱の日から勉強を開始しました。一から勉強し直そうと考えていたとき、そもそもこの、「慰安婦」、問題を最初に広範に取り上げた朝日新聞を遡れるだけ遡って読んでみようと思いました。
幸いなことに、米国のある大学に朝日新聞が所蔵されていました。
そこへ日参して慰安婦問題に関する朝日新聞の記事から始めて調べていけば行くほど、「なんだ朝日新聞じゃないか」、という思いが日に日に強くなりました。
つまり、朝日新聞の記事がニューヨークタイムズや韓国のマスコミに引用されて、在米の韓国系の活動家の基本資料となっているという構図がある。私は慰安婦の問題について、ロサンゼルタイムズの記者と息子が話をしたとき、「あなたたちは英文の資料を持っていますか。私たちは韓国側から英文の資料をこれだけもらっているんですよ」、と分厚い資料の束を見せられたことがあります。
一方で、日本側からの英文資料はほとんどないという現実を突きつけられたのです。私はそのとき肌が泡立つような戦慄を覚えました。
だけか私達のこの悔しさを救い出してくれる人はいないだろうかと思っていました。
問題の根源は、慰安婦問題を反日の道具としている韓国や韓国に篭絡されているアメリカの政治家ではなく、朝日新聞だ、との確信は深まるばかりでした。実際、アメリカ人に説明しても、「お宅のクオリティ・ペーパーが書いているじゃないか」、と言われること再三、再四でした。
元を断たなければだめだと念じていたところ、こうして朝日新聞を訴える訴訟の動きが出てきて、去る2月18日、私も原告の一人として提訴することができました。
その日は長く塞がれていた胸が晴れる思いがしました。
馬場・・この問題の根源が、朝日新聞にあるとすれば、その朝日自身が誤認を認めたこと自体、アメリカ人はほとんど知りません。本来ならば、朝日新聞社はそのことをきちんと英字紙上でも伝えるのが筋ですが、それが行われていない以上、こういう訴訟の形でもってそのことを要求することは著しく名誉を毀損された日本人の一人として当然のことと思います。
《アメリカ中に鳴り響くように謝罪せよ》
ーー実際この問題によって在米邦人はどのような境遇におかれたのでしょうか。
馬場・・わたしが把握している限りでは、嫌がらせですね。それまで少なくとも表向きは仲良くしていた韓国人の隣人が突然、言いがかりをつけてきたり、駐車場の譲り合いがなくなったり等々、それまでまったくなかったような軋轢が増えたというこえをよく聞くようになりまた。波風の立たなかったコミュニティに突然さざ波が立つようになったのです。
ーー韓国側に絡め取られていないアメリカ人一般の慰安婦問題についての認識はどのようなものなのでしょうか。
馬場・・公聴会で知り合った白人男性は、「やはり日本が悪いことをした」、という。ただしああいう銅像がアメリカ中に建てられるとすると、そんなのは見たくない、とも。こが主流なのではないでしょうか。
馬場・・それはやはり英語による情報量が圧倒的に違うからです。ですから、訴訟が求めているように、絶対に朝日の英文による謝罪広告は必要です。アメリカ中に鳴り響くようにやってほしい。その責任が朝日にはあるのです。私は、朝日の謝罪広告が米紙に掲載されたら、その新聞を持って全米各地を行脚したいと思っています。
・・・
※
>私は慰安婦の問題について、ロサンゼルタイムズの記者と息子が話をしたとき、「あなたたちは英文の資料を持っていますか。私たちは韓国側から英文の資料をこれだけもらっているんですよ」、と分厚い資料の束を見せられたことがあります。
一方で、日本側からの英文資料はほとんどないという現実を突きつけられたのです。私はそのとき肌が泡立つような戦慄を覚えました。
《慰安婦問題に関し、日本国外務省、は朝日の共犯者である》ーーー杉原誠四郎・新しい歴史教科書をつくる会会長