集団的自衛権のラビリンス…論争で親中派を炙り出せ
保有するが行使はできない…まるで謎かけのような解釈が集団的自衛権行使を阻んできた。有識者会合には最初から結論ありきと批判も噴出。だが全否定から出発しているのが反日ファシストだ。
5月18日に開かれた安倍首相肝いりの有識者会議初会合に前後して、ようやく集団的自衛権の問題が脚光を浴びるようになった。
戦後長らく、冷凍庫で保管されてきた集団的自衛権だが、共同通信の世論調査によれば「今のままで良い」が62%超。しかも1ヵ月前の調査よりも7%もアップしている…
ところが、一部メディアの「集団的自衛権を理解しているか?」という問いに関しては「理解している」が8%だったそうだ。
「中身は分からないが、とにかく反対」
反日メディアに世論が踊らされる好例かも知れない…
もっとも一部の識者は「集団的自衛権を理解せよ」と言う方が無理だと指摘する。我が国の場合、「集団的自衛権の行使は不可能」との見解を導くには…
国連憲章チャプター7第51条→占領憲法9条→内閣法制局解釈
という手続きを確認する必要がある。
つまり、曖昧な表現の憲法に加えて、ややこしい法解釈まで把握しなければならないのだ。「これで理解しないさい」と言われても、簡単に分かるものではない。複雑なパズルか、出口のない迷宮のようだ。
それだけに反日ファシストの印象操作は、功を奏してきた。「62%が反対」という世論調査も、無理解とイメージ戦略の賜物なのではないか。何しろ我が国では、これまで本質論を避けに避けてきたのだ。
【国防を内閣法制局が担う?】
18日に首相官邸で開催された有識者会議「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」
▽5月18日の初会合(時事通信)
憲法解釈上ダメだとされてきた集団的自衛権行使について、事前研究を進める為に設置されたものだ。表向きはその通りだが、政府解釈の変更を最終的に視野に入れた懇談会であることは誰もが分かっている。
有識者13人は、元駐米大使の柳井俊二、元防衛大教授の佐瀬昌盛、JR東海会長の葛西敬之ほか保守論壇紙でお馴染みのメンバー。有識者の顔ぶれを見て反日メディアや一部言論人は意味深長に、こう言う。
「初めから結論ありきだ」「解釈変更を目的にした懇談会だ」
そんな当たり前の事を、さも大発見のように商業メディアに言われても困る…カネを払っている新聞の購読者に失礼だ。
▽座長の柳井俊二元外務省条約局長
この初会合では4類型が緊急のテーマとして取り上げられた。
4つのシチュエーションに限って解釈の突破が進められる見込みだが、一部からは「選択肢を自ら狭める」と危惧する声も上がっている。もっともな指摘だ。より広範な事例の研究が求められる。
▽集団的自衛権行使で研究する4類型(イザ)
その中、MDシステムやPKOに関わるケースは、早急に解決しなければならないものだ。現状だとミサイル発射準備が進む緊急時でも政府は内閣法制局に判断を仰がなければならない。
国防の最前線に立つのは、内閣法制局の役人という仕組みである。まるで本社経理部のハンコに裁量権を握られた日本企業のようだ。
それを回避する為にも早急に整えておく、必要があるだろう。MDのケースも緊急の問題だが、PKO部隊の武器使用は明日にも起こり得る。隊員の命に関わるケースなので、政府がバックアップするのは当然だ。
【PKO部隊の非常時には国際電話…】
3月31日、自衛隊ネパールPKO要員6人が首都カトマンズに到着した。海外活動が本来任務に格上げされてから初の派遣だったが、余りにも報道は少なかった。
6月のネパール選挙に向けて旧反政府勢力の武装解除を監視するのが主な任務で、UNIMIN=国連ネパール支援団と一体になって任務を遂行する。
▽ネパールに到着した隊員(AFP)
毛沢東主義者が大暴れしたネパールの武装衝突は沈静化したが、過去には警察官を狙った攻撃が続いていた。選挙の前後には不穏な動きがあると伝えられ、危険な任務になる可能性も高い。
過去のPKOでは、自衛隊員は武器使用が制限されている事態を、他国の兵士に説明しなければならなかったろう。その説明は日本語でも訳が分からない。
「憲法で武器の使用は認められていない」「自衛隊は合法だけど違憲…」
こんな状態で「国際社会で名誉ある地位が占められる」と主張していたのが、前世紀のサヨクだった。10日間憲法の悪口は別の機会に譲るとして、問題は集団的自衛権だ…
▽クウェート空軍基地を視察する安倍首相
他国のPKO部隊がゲリラの奇襲を受けた場合、黙って見ていればOKとするのが、現在の解釈である。側面から迎撃できる位置にいても、援護射撃は出来ない。
そんな場合は、まず国際電話で防衛省に連絡し、更に内線で内閣法制局に問い合わせる必要がある…間に合う訳がない。前線では敵にも等しい“見殺し部隊”である。
「家族や友人が攻撃されて助けないのか。助けるのが集団的自衛権だ」
18日の有識者会議でも、そうした発言が出たという。議論を矮小化する嫌いがあるが、老害サヨクにも耳が痛いのは、こうした判り易い比喩だろう。
【喩え話の前提が間違っている?】
少し前に、列車内のトイレに女性が連れ込まれ、暴行されるという事件が報じられた。「他の40人が見て見ぬ振りをした」とする一部の報道は実に怪しいが、これが集団的自衛権の行使に該当する卑近な例だ。
列車内の暴行事件に置き換えると、自分がトイレに押し込まれない限り、暴行魔への対処は出来ない。黙って見ているしかないのだ。犯罪のススメ、社会悪の容認である。
しかも列車内にいた乗客は、女性にとって他人だ。集団的自衛権の現行解釈では、同盟に類する緊密な関係であっても手出しが出来ない。つまり自分が被害女性の交際相手でも家族でも「見逃せ」「黙って見てろ」というスタンスだ。
加害者も鬼畜なら、傍観者も準鬼畜である。
もっとも、こうした社会的な事件を集団的自衛権行使に置き換えることに異論はあるだろう。質的に違うのは、当たり前だ。車内傍観の比喩にも、実は平和ボケの末期症状が潜む。
昭和56年の政府解釈では集団的自衛権を、こう表現している。
同盟国など自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず実力をもって阻止する権利。
石破茂元防衛庁長官によると、この考え方がネガティブなのだと言う。それは、どういうことなのか?
▽石破元長官
ポイントは「自国が攻撃されていないにも関わらず」という部分だ。これを「他国が攻撃されたら実力で~」という意識に改めないとダメだと指摘する。
確かに、余りにも自分本位、自己中心的な思考ルーチンだ。「他人が被害にあったら」というポジティブな考えに変えて行く必要がある。
車内の比喩では「自分の被害」を前提に考えることが誤りだ。自分に被害が及ぶか否かは、最初から関係ない。目の前で被害者が出れば助けるのが筋だろう。
【軍事小国を救う権利だった】
石破講義にもう少し耳を傾けてみよう。
集団的自衛権という概念は、世界大戦後の連合国戦勝固定法(国連憲章)で初めて登場した概念だ。そこには、こう書かれている。
■チャプター7第51条■
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。
産声をあげたばかりの国連は、国際紛争が起きた場合、国連軍を派遣して解決するのがセールス文句だった。しかし、P5(戦勝5ヵ国)が攻撃を仕掛けた場合、安保理が介入したくても拒否権が発動されるので、国連軍派遣は無理だ。
P5はヤリたい放題である。
▽国連安保理(参考画像)
例えばソ連がコスタリカに攻め込んでも、コスタリカは国連に派遣軍を求めることは出来ない。拒否権発動でNG。P5以外の小国は圧倒的に不利…そこで小国に対する言い訳として記されたのが集団的自衛権だという。
その後の冷戦で、世界の軍事ブロック化が進むが、それは拒否権を手に入れたP5の2ヵ国=米ソ中心の2つの同盟という方向に進んでしまった。本来は小国のための権利だったのだが、P5に利用された形だ。
そんな軍事小国の為の権利まで、我が国は自ら奪っているのだ。絶望的な状況である。いったい、それで得をしているのは誰なのか?
【反対論の根底にはシナ軍拡擁護】
集団的自衛権行使4類型で日米同盟を主眼にしたのは、ややテクニック的に、左派言論機関に突っ込まれ易い部分がある。呪われた念仏のように「米軍との一体化」を言い続けるだろう。
強い反米意識は分かるが、実際にそれは己らの親中姿勢を塗り潰すものでしかない。我が国が集団的自衛権行使にGOサインを出して、最も不利益を被るのは、中共と北朝鮮だ。揺るぎない現実である。
▽猛反対中の山拓せんせい(NHK)
実際に媚中派の面々は、ストレートな反応を示している。公明党や、山崎拓、朝日新聞…総じてシナの犬だ。冷戦構造の終焉後、我が国を取り巻く変化の中で大きいのは中共と北朝鮮の軍事増強である。
現実に北朝鮮はミサイルを発射し、中共は台湾侵攻を睨んだ海軍力の増強に励んでいる。それを、どう捉えるかが大切だ。石原都知事のNY発言であったように対中認識が根っこにある。
中共が台湾を侵攻しないと盲信する連中に対して、集団的自衛権や憲法問題で、どんな正論を吐いても意味がない。最初から認識がすれ違っているのだ。
現在も継続するチベット侵略を“解放”或は“自治権拡大”と言い張る反日ファシストに何を語っても無駄である。北朝鮮に狂気を見出せない連中も同様。そうした連中の願いは、我が国が軍事的な3流国であり続けることだ。
▽反発する公明党の太田(NNN)
10日間憲法をゴミ箱に棄てる前に、集団的自衛権問題に踏み込む作業は、我が国の親中・親北派を炙り出す格好の材料になる。早くも公明党などは媚中スタンスを明確にしている。いいぞ、その調子だ。
安倍首相は国防問題で少しも怯む必要はない。何を言われても堂々と突き進めば良い。
▽はなま艦上の安倍首相(AP)
「保有すれども行使できず」などという詭弁が罷り通るほど現実の世界は甘くない。国防とは理念ではなく、物理的なものだ。戦う時に戦わなければ、国家の形を失う。
とりわけ台湾有事と半島有事は、極めて可能性の高い危機の種子だ。我が国に与えられた時間は、そう多くない。
〆
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参考記事:
イザ5月19日『集団的自衛権で安倍首相慎重 割れる見解に配慮』
イザ3月22日【正論】佐瀬昌盛 「行使不可」で「不利益はない」のか
産経新聞11月10日【正論】慶応大学教授、弁護士 小林節 正しく理解されない集団的自衛権
毎日新聞5月17日『集団的自衛権:解釈変更、柳井俊二・前駐米大使に聞く「変化」は時代の要請』
5月18日に開かれた安倍首相肝いりの有識者会議初会合に前後して、ようやく集団的自衛権の問題が脚光を浴びるようになった。
戦後長らく、冷凍庫で保管されてきた集団的自衛権だが、共同通信の世論調査によれば「今のままで良い」が62%超。しかも1ヵ月前の調査よりも7%もアップしている…
ところが、一部メディアの「集団的自衛権を理解しているか?」という問いに関しては「理解している」が8%だったそうだ。
「中身は分からないが、とにかく反対」
反日メディアに世論が踊らされる好例かも知れない…
もっとも一部の識者は「集団的自衛権を理解せよ」と言う方が無理だと指摘する。我が国の場合、「集団的自衛権の行使は不可能」との見解を導くには…
国連憲章チャプター7第51条→占領憲法9条→内閣法制局解釈
という手続きを確認する必要がある。
つまり、曖昧な表現の憲法に加えて、ややこしい法解釈まで把握しなければならないのだ。「これで理解しないさい」と言われても、簡単に分かるものではない。複雑なパズルか、出口のない迷宮のようだ。
それだけに反日ファシストの印象操作は、功を奏してきた。「62%が反対」という世論調査も、無理解とイメージ戦略の賜物なのではないか。何しろ我が国では、これまで本質論を避けに避けてきたのだ。
【国防を内閣法制局が担う?】
18日に首相官邸で開催された有識者会議「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」
▽5月18日の初会合(時事通信)
憲法解釈上ダメだとされてきた集団的自衛権行使について、事前研究を進める為に設置されたものだ。表向きはその通りだが、政府解釈の変更を最終的に視野に入れた懇談会であることは誰もが分かっている。
有識者13人は、元駐米大使の柳井俊二、元防衛大教授の佐瀬昌盛、JR東海会長の葛西敬之ほか保守論壇紙でお馴染みのメンバー。有識者の顔ぶれを見て反日メディアや一部言論人は意味深長に、こう言う。
「初めから結論ありきだ」「解釈変更を目的にした懇談会だ」
そんな当たり前の事を、さも大発見のように商業メディアに言われても困る…カネを払っている新聞の購読者に失礼だ。
▽座長の柳井俊二元外務省条約局長
この初会合では4類型が緊急のテーマとして取り上げられた。
4つのシチュエーションに限って解釈の突破が進められる見込みだが、一部からは「選択肢を自ら狭める」と危惧する声も上がっている。もっともな指摘だ。より広範な事例の研究が求められる。
▽集団的自衛権行使で研究する4類型(イザ)
その中、MDシステムやPKOに関わるケースは、早急に解決しなければならないものだ。現状だとミサイル発射準備が進む緊急時でも政府は内閣法制局に判断を仰がなければならない。
国防の最前線に立つのは、内閣法制局の役人という仕組みである。まるで本社経理部のハンコに裁量権を握られた日本企業のようだ。
それを回避する為にも早急に整えておく、必要があるだろう。MDのケースも緊急の問題だが、PKO部隊の武器使用は明日にも起こり得る。隊員の命に関わるケースなので、政府がバックアップするのは当然だ。
【PKO部隊の非常時には国際電話…】
3月31日、自衛隊ネパールPKO要員6人が首都カトマンズに到着した。海外活動が本来任務に格上げされてから初の派遣だったが、余りにも報道は少なかった。
6月のネパール選挙に向けて旧反政府勢力の武装解除を監視するのが主な任務で、UNIMIN=国連ネパール支援団と一体になって任務を遂行する。
▽ネパールに到着した隊員(AFP)
毛沢東主義者が大暴れしたネパールの武装衝突は沈静化したが、過去には警察官を狙った攻撃が続いていた。選挙の前後には不穏な動きがあると伝えられ、危険な任務になる可能性も高い。
過去のPKOでは、自衛隊員は武器使用が制限されている事態を、他国の兵士に説明しなければならなかったろう。その説明は日本語でも訳が分からない。
「憲法で武器の使用は認められていない」「自衛隊は合法だけど違憲…」
こんな状態で「国際社会で名誉ある地位が占められる」と主張していたのが、前世紀のサヨクだった。10日間憲法の悪口は別の機会に譲るとして、問題は集団的自衛権だ…
▽クウェート空軍基地を視察する安倍首相
他国のPKO部隊がゲリラの奇襲を受けた場合、黙って見ていればOKとするのが、現在の解釈である。側面から迎撃できる位置にいても、援護射撃は出来ない。
そんな場合は、まず国際電話で防衛省に連絡し、更に内線で内閣法制局に問い合わせる必要がある…間に合う訳がない。前線では敵にも等しい“見殺し部隊”である。
「家族や友人が攻撃されて助けないのか。助けるのが集団的自衛権だ」
18日の有識者会議でも、そうした発言が出たという。議論を矮小化する嫌いがあるが、老害サヨクにも耳が痛いのは、こうした判り易い比喩だろう。
【喩え話の前提が間違っている?】
少し前に、列車内のトイレに女性が連れ込まれ、暴行されるという事件が報じられた。「他の40人が見て見ぬ振りをした」とする一部の報道は実に怪しいが、これが集団的自衛権の行使に該当する卑近な例だ。
列車内の暴行事件に置き換えると、自分がトイレに押し込まれない限り、暴行魔への対処は出来ない。黙って見ているしかないのだ。犯罪のススメ、社会悪の容認である。
しかも列車内にいた乗客は、女性にとって他人だ。集団的自衛権の現行解釈では、同盟に類する緊密な関係であっても手出しが出来ない。つまり自分が被害女性の交際相手でも家族でも「見逃せ」「黙って見てろ」というスタンスだ。
加害者も鬼畜なら、傍観者も準鬼畜である。
もっとも、こうした社会的な事件を集団的自衛権行使に置き換えることに異論はあるだろう。質的に違うのは、当たり前だ。車内傍観の比喩にも、実は平和ボケの末期症状が潜む。
昭和56年の政府解釈では集団的自衛権を、こう表現している。
同盟国など自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず実力をもって阻止する権利。
石破茂元防衛庁長官によると、この考え方がネガティブなのだと言う。それは、どういうことなのか?
▽石破元長官
ポイントは「自国が攻撃されていないにも関わらず」という部分だ。これを「他国が攻撃されたら実力で~」という意識に改めないとダメだと指摘する。
確かに、余りにも自分本位、自己中心的な思考ルーチンだ。「他人が被害にあったら」というポジティブな考えに変えて行く必要がある。
車内の比喩では「自分の被害」を前提に考えることが誤りだ。自分に被害が及ぶか否かは、最初から関係ない。目の前で被害者が出れば助けるのが筋だろう。
【軍事小国を救う権利だった】
石破講義にもう少し耳を傾けてみよう。
集団的自衛権という概念は、世界大戦後の連合国戦勝固定法(国連憲章)で初めて登場した概念だ。そこには、こう書かれている。
■チャプター7第51条■
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。
産声をあげたばかりの国連は、国際紛争が起きた場合、国連軍を派遣して解決するのがセールス文句だった。しかし、P5(戦勝5ヵ国)が攻撃を仕掛けた場合、安保理が介入したくても拒否権が発動されるので、国連軍派遣は無理だ。
P5はヤリたい放題である。
▽国連安保理(参考画像)
例えばソ連がコスタリカに攻め込んでも、コスタリカは国連に派遣軍を求めることは出来ない。拒否権発動でNG。P5以外の小国は圧倒的に不利…そこで小国に対する言い訳として記されたのが集団的自衛権だという。
その後の冷戦で、世界の軍事ブロック化が進むが、それは拒否権を手に入れたP5の2ヵ国=米ソ中心の2つの同盟という方向に進んでしまった。本来は小国のための権利だったのだが、P5に利用された形だ。
そんな軍事小国の為の権利まで、我が国は自ら奪っているのだ。絶望的な状況である。いったい、それで得をしているのは誰なのか?
【反対論の根底にはシナ軍拡擁護】
集団的自衛権行使4類型で日米同盟を主眼にしたのは、ややテクニック的に、左派言論機関に突っ込まれ易い部分がある。呪われた念仏のように「米軍との一体化」を言い続けるだろう。
強い反米意識は分かるが、実際にそれは己らの親中姿勢を塗り潰すものでしかない。我が国が集団的自衛権行使にGOサインを出して、最も不利益を被るのは、中共と北朝鮮だ。揺るぎない現実である。
▽猛反対中の山拓せんせい(NHK)
実際に媚中派の面々は、ストレートな反応を示している。公明党や、山崎拓、朝日新聞…総じてシナの犬だ。冷戦構造の終焉後、我が国を取り巻く変化の中で大きいのは中共と北朝鮮の軍事増強である。
現実に北朝鮮はミサイルを発射し、中共は台湾侵攻を睨んだ海軍力の増強に励んでいる。それを、どう捉えるかが大切だ。石原都知事のNY発言であったように対中認識が根っこにある。
中共が台湾を侵攻しないと盲信する連中に対して、集団的自衛権や憲法問題で、どんな正論を吐いても意味がない。最初から認識がすれ違っているのだ。
現在も継続するチベット侵略を“解放”或は“自治権拡大”と言い張る反日ファシストに何を語っても無駄である。北朝鮮に狂気を見出せない連中も同様。そうした連中の願いは、我が国が軍事的な3流国であり続けることだ。
▽反発する公明党の太田(NNN)
10日間憲法をゴミ箱に棄てる前に、集団的自衛権問題に踏み込む作業は、我が国の親中・親北派を炙り出す格好の材料になる。早くも公明党などは媚中スタンスを明確にしている。いいぞ、その調子だ。
安倍首相は国防問題で少しも怯む必要はない。何を言われても堂々と突き進めば良い。
▽はなま艦上の安倍首相(AP)
「保有すれども行使できず」などという詭弁が罷り通るほど現実の世界は甘くない。国防とは理念ではなく、物理的なものだ。戦う時に戦わなければ、国家の形を失う。
とりわけ台湾有事と半島有事は、極めて可能性の高い危機の種子だ。我が国に与えられた時間は、そう多くない。
〆
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参考記事:
イザ5月19日『集団的自衛権で安倍首相慎重 割れる見解に配慮』
イザ3月22日【正論】佐瀬昌盛 「行使不可」で「不利益はない」のか
産経新聞11月10日【正論】慶応大学教授、弁護士 小林節 正しく理解されない集団的自衛権
毎日新聞5月17日『集団的自衛権:解釈変更、柳井俊二・前駐米大使に聞く「変化」は時代の要請』
この記事へのコメント
外国で、集団的自衛権といってもほとんどの国では通用しないし、援軍を助ける事は、防衛行動の一環という事でいいと思います。
街中で暴力団(特に3国系)が一般人を殴り、助けようとした人間にお前を殴った訳でもないのに何故係わるんだと言う屁理屈と同じです。
永年右肩上がりの成長を続けて来た我が国は企業経営者も官僚的なサラリーマン経営者が多くなり、売国奴の洗脳と相俟って無責任事なかれ主義が蔓延してしまいました、誠に憂うべき事態です。
例えば、
「Aを保有しているが、Aを処分(行使:売買・廃棄)できない」
→「Aという処分できない物を保有している。」
→「処分できない物を持っている」
→この時、「持っているのか?」という疑問が出て、結局、「処分できない物は、持ってない」としか言いようがありません。
また、
「脅迫した相手に契約書にサインさせた」と仮定しましょう。
→この契約書は無効なので、
「契約書を保有しているが、行使できない」
→集団的自衛権と似たような文章になってしまいますが、脅迫下の下での契約書は無効ですので、「契約書は無いものと同じ」になります。
→「集団的自衛権は無いものと同じ」となってしまいます。
→しかし、「集団的自衛権は保有している」ので、「集団的自衛権は有る」のです。
→結局、「行使できない」とした事が誤りなのです。
→従って、「集団的自衛権は保有していて、行使できる」と解釈しなければなりませn。
しかしなぜ政府は「集団的自衛権を有してはいるが、憲法で許されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限の範囲にとどまる」としたのか。
それは、米国が集団的自衛権を使い越戦に介入した、そのことが日本の意思に関係なく戦争に巻き込まれる恐れを政府や日本国民に抱かせたことが契機になっている。
ところが、欧州での冷戦終結。危険は東亜に移った。「朝鮮半島や台湾海峡において大規模な紛争が一瞬のうちに起こりかねない」「危険が潜在的する状況で、米日関係はきわめて重要だ」ということになった。
「世界第二の経済力と有能な軍隊を有し、民主的同盟国の日本は、米国の対亜関与のかなめ石の役割を果たす。米日同盟は、アメリカの地球的安全保障戦略の中心である」
「二カ国間の安全保障の結びつきを再定義し再活性化する」必要がある。小生も同感である。
と本当に大差がありません。空しい議論がいつまでも続く異常な言語空間を打破出来ず、敵軍侵攻を含む凄まじい外圧を待たなければ変れない様では、余りにも藝が無さ過ぎると諸外国や後世の人々に嗤はれても仕方が無いでせう。
他人の生命財産を
必要最小限に守る
という正当防衛の
延長戦上になされるのであれば
その行使に反対しない。
他人の生命財産が攻撃を受けたと
いっても、
攻撃を受けた本人が十分自衛
できるのであれば、見逃していいしその攻撃を受けた本人の生命
財産が危なくなった場合にのみ
攻撃側の武器機能を破壊するだけの
必要最小限の正当防衛としての
集団的自衛権を行使できる。
本人の生命財産が危なくない場合
または攻撃する武器を越えた反撃が
なされる過剰防衛としての
集団的自衛権の
行使には反対する。
集団的自衛権を行使できるからといって、行使しなければならないでも無く、何にでも行使することもありません。
自衛隊には、大陸を侵略する能力は無いでしょうから、某国への攻撃が国連安保理決議で決定されても、某国を攻撃することはおそらくないでしょう。
国防の意義を度外視し、言葉を弄んだ結果の混乱ですね。政党対立では有効でも、一歩外に出たら通用する理屈ではありません。
>火天大有さま
昔は左派系弁護士も社会正義を装えましたが、在日暴力団と緊密だったり化けの皮が剥がれました。二枚舌はもう通用しません。
>とおる様
なるほど。論理的な捉え方だと思います。内閣法制局の苦しい言い訳が混乱を招きましたが、やはり整合性が付いていません。
>名無しの経営者さま
過程でベトナム戦争があったのか…見落としていた視点です。冷戦後の国防実態が大きく変化した今、再定義が急がれますね。
>キラーT細胞さま
福田恆存は凄い言論人だったのですね。唸ります…現実を直視しない空論の継続は、正に歪んだ言語空間を物語っています。
>傍観者さま
戦場に過剰防衛という概念がある?それを攻撃中の兵士が判断するのですね。
>おじさん様
4類型の中では特にPKO要員のケースが気になります。仰るように中共派遣要員の被害を見過ごしたら一気に世論が変わりますね。
その筋の連中は相も変わらず世迷言を言っている。その極めつけが公明党の太田代表。
「研究するのは良いが、憲法解釈を変えることは許さない」と言うのだから、連立を解消せざるを得ない。
イラクに派遣された自衛隊幹部は、いざという時には「超法規的措置」を覚悟していたという。現場がそこまで覚悟していることを心強く思う。
最近のシナのお粗末ぶりを見るにつけ、北京五輪を待たずに危機到来を予感する。だとしたら、集団的自衛権の見直しや改憲に悠長に取り組んでいる場合ではない。政府も一般国民も「超法規的措置」の覚悟をしておかねばなるまい。
対テロ戦争参戦だから
自衛隊は燃料を他国の軍艦に
供給しにいったり、
イラクには行くなといった。
参戦するなら憲法を変えてから
行けという論理か?
日本政府は西側諸国の軍艦に
挑戦する海賊などいないとみて
海上自衛隊を西側諸国の軍艦に
燃料供給しに派遣したくせに
仮に西側諸国の軍艦に挑戦して
くる者が現れたらなんて
非現実的なことを想定しなければ
ならないのか?
MDの集団的自衛権の行使だが
在日米軍はまさに日本上空
または日本領海経由で米国を
攻撃する物体を阻止するために
日本にいるのではないのか?
なぜいまさら集団的自衛権
なのか?
PKOなど
すべての紛争当事者による
自衛隊招待を含む参加五原則を
厳格に適用すればいいだけの話。
支離滅裂なんてとんでも無い。
今回の改正問題は
おっしゃっている“何故大多数の日本人の人権が阻害されているのですか?”を根底から覆す可能性をはらんでいます。もちろん日本人に有利なように。
果ては、移民問題にも直結してくるはずです。
何故か?
“移民や在日したい外国人に”英国でも導入決定の“国に忠誠を誓うか否か”を本格的に問うことの出来る状況に向かうことが出来るからです。“俺は日本に寄生しているだけ関係ない”とは言えなくなるでしょうから。
ちょっと飛びすぎでしょうか?
他の部分ある程度こういう考えもと思いますが、
>PKOなど
>すべての紛争当事者による
>自衛隊招待を含む参加五原則を
>厳格に適用すればいいだけの話。
その適用を適度と判断するのは何処の誰なんでしょうか?
また、その判断者はどの紛争でも掌握しきれるのですか?
現実論から離れている気がしますけど。
>のは何処の誰なんでしょうか?
政府以外誰ができるのですか?
>また、その判断者はどの紛
>争でも掌握しきれるのです
>か?
ご趣旨がよくわかりません。
お呼びでないのに出向いて
撃たれてしまう事態を
避けるために
PKO参加五原則の堅持を
訴えているだけです。
>争でも掌握しきれるのです
>か?
紛争を把握掌握できずして
PKO貢献ができますか?
「保有するが行使できない」という言い方は、憲法第9条による制約というより、もともと国連憲章51条の中にある「集団的安全保障」論からくる制約である。だから、集団的自衛権を行使したいのなら、有識者会議による「解釈変更」だとか、国民投票による憲法第9条の「改正」などというみみっちいことをやめて、いっそう国連を脱退すべきなのだ。
かつて日本は「日独伊三國同盟」に突き進む(集団的自衛権の「行使」)に当たって、国際連盟を脱退した。脱退を説いた外相・松岡洋右は戦犯として訴追され獄死した。集団的自衛権に殉じたのである。いま、松岡にならって国連脱退を説かぬ集団的自衛権論者は信用ならぬ。ましてやその「常任理事国入り」をめざす輩は言わずもがなである。
国の権利は、何か、権威のある世界組織や大国(米国)によって与えられるものではないのである。人の権利もまた然りである。