失われた宮家を求めて…男系適格者120人の豊饒

GHQに皇籍を剥奪された11宮家。断絶した宮家がある一方、男系に恵まれた宮家も多い。そして閑院宮の祖に連なる“近親”の御皇胤が高位聖職者として世を忍ぶ姿も浮かび上がった。
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「でも、いい石よ。彫刻もめずらしいし、骨董としての値打ちもありますわ」
「どこで買ったと思います」
「外地?」
「いいえ、焼趾の東京でですよ。洞院宮様の店でです」


三島由紀夫畢生の大長編『豊饒の海』第3巻『暁の寺』のワンシーン。この大長編の観測者である本多は戦後、宮様が開いた骨董屋で、因縁めいたエメラルドの指輪を発見し、手に入れる。

「昭和二十二年に、本多は皇族の籍を失った洞院宮が、財産税に難渋している旧華族から美術品を安く買い叩いて、外人目当ての骨董屋を開業されたという話をきいた」(『暁の寺』旧文庫版171頁)

洞院宮のモデルは、邸宅の描写から東伏見宮と類推される。洞院宮家は若き殿下がヒロイン・綾倉聡子の婚約者になるなど物語の鍵を握るが、東伏見宮が骨董店を営まれたことはない。あくまでも小説の設定だ。
▽横浜の旧東伏見宮別邸(はまれぽ)
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ただし、東久邇宮稔彦王殿下が骨董店を含む様々なビジネスに乗り出されたという記録は残る。稔彦王殿下は、終戦時の鈴木貫太郎内閣を引き継いだ唯一の御皇族総理大臣である。

一方、綾倉聡子のモデルは、北白川宮永久王妃の祥子殿下とされる。陸軍少佐だった永久王殿下が昭和15年に内蒙古で演習中に薨去された後、北白川宮家を支え、長らく皇太后宮女官長を務められた。
▽北白川宮永久王殿下と祥子妃殿下
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祥子妃殿下の実弟・徳川義恭氏は学習院時代の三島の親友で、処女作『花ざかりの森』の装丁・挿絵を担当した美術家。夭逝した義恭氏は、三島作品の始まりと終わりを結ぶキーパーソンとも言える。

『豊饒の海』でモデルとなった東伏見宮家と北白川宮家は共に昭和22年、GHQによって皇籍を剥奪された。いわゆる失われた宮家であるが、共通項はそれだけではない。

【GHQの皇統断絶プログラム】

凍て付く寒い冬の朝、氷が張って拘置所の水道は出なかった。昭和20年12月11日、高齢の男性が“戦犯”として巣鴨プリズンに押し込められた。男性は、梨本宮守正王殿下だった。

「宮殿下ゆえに特別扱いせず」

同月上旬、GHQは声明を発し、軍歴のある御皇族の逮捕を警告。手始めに守正王殿下を拘束したのだ。占領軍の暴挙に、宮家の方々は震え上がった。
▽梨本宮守正王殿下と御一家(大正7年)
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「皇族自今海陸軍ニ従事スベク」

明治5年の太政官達によって御皇族の健康な男子の多くが、軍学校に学び、高位軍人となった。梨本宮守正王殿下は日露戦争後に満州へ御出征、昭和7年には元帥におなりにられた。

「何の為、自分が戦争責任者であるか解らぬ」

守正王殿下は、そう仰せられたという。昭和13年には退役し、伊勢神宮の祭主に就かれているが、“容疑”はそこにあった。占領軍は伊勢神宮をファシズムの根源と見傚し、大戦末期には空爆も実行していた。
▽伊勢神宮空爆で壊滅した周辺地区S20年
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全くの誤解だった。日本側の丁寧な説明を受け、GHQは翌春に守正王殿下を釈放したが、御皇族や日本国民の不安は尽きなかった。聖上の処遇に関しても予断を許さない状況である。

既にGHQは終戦直後、財閥解体と同時に御皇室財産に手を突っ込む方針を打ち出し、昭和21年5月に実行した。土地や持ち株から宝飾品に至るまで悉く奪い去る暴挙。御皇室解体の第一歩だった。
▽有楽町~皇居前の進駐軍パレードS23年(産経)
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同年11月、先帝陛下におかれては、宮中に御皇族を召集され、臣籍降下を懇請されたという。これは御意でも苦渋の選択でもなく、御皇室縮小を目論むGHQの圧力だったことは前後の事情からも明らかだ。

GHQ信徒の反日陣営は今なお、先帝陛下の懇請が「11宮家追放」のきっかけと嘘を吐く。また伏見宮系との確執を殊更に強調する国賊も多いが、間違いである。
▽先帝陛下と宮家の方々
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遠い未来の御皇室消滅さえも視野に入れ、GHQは明確な意志をもって先ず11宮家から皇籍を剥奪したのだ。そして昭和22年5月、我が国の主権が失われる中、占領憲法が発布される。

東久邇宮稔彦王殿下や賀陽宮恒憲王殿下ら一部の御皇族がGHQ指令に先立ち、臣籍降下を申し出た事例もあった。だが、これらは敗戦という未曾有の国難に際し、強い自責の念に駆られたものだった。
▽賀陽宮恒憲王殿下(お茶の水女子大所属)
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殆どの御皇族は、強制的な臣籍降下に疑問をお持ちになられていた。22年10月の皇室会議で11宮家の御皇族は、自ら皇籍を離れる形を取られるが、元より残ることは不可能だったのだ。

11宮家51人の御皇族方は、ただ占領軍の命令に従う他なかった。

【失われた宮家の終わらない戦後】

昭和22年に皇籍を剥奪された11宮家は、いずれも伏見宮系だ。世襲親王家では最も古い家柄で、南北朝時代の崇光天皇の第一皇子・伏見宮栄仁親王を祖とする。
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その孫である後花園天皇の弟君・貞常親王が伏見宮家を継ぎ、徳川家の策謀を耐え抜いて江戸時代も家を保つ。幕末の邦家親王に皇子が多く、明治の始まりに11宮家を整えるに至った。

後花園天皇の御代は15世紀中庸で、枝分かれした時代は古く、子孫を親等で追うと直系とはやや離れている。だが、それこそが皇統を守る重要な傍系だったことは知られないまま、我が国は戦後を迎えた。
▽皇室典範に関する有識者会議H17年(file)
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日本人が皇統断絶の危機に直面し、蒼白となったのは、悠仁親王殿下が御生誕される直前だった。小泉政権下で俄かに出現した“女性宮家”創設の策謀。一部の国民有志は、11宮家の復活を訴えた。

当時、筆者も旧宮家の復活に強く賛同したが、やがて自らの無知を恥じることになる。皇籍復帰を求めた11宮家の中に男系が途切れた宮家も含まれていたのだ。
▽皇籍剥奪された11宮家(『新潮45』1月号より)
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東伏見宮家、山階宮家、閑院宮家は、昭和期に継嗣がなく断絶。更に守正王殿下が薨去された梨本宮家は、久邇宮多嘉王殿下の第三子を養子に迎え、家を守ったが、10年前に世を去られている。

そして伏見宮家と北白川宮家は、ご高齢の現当主に男子がなく、残念ながら、断絶の見通しだ。明治大帝の玄孫として知られる竹田恒泰氏は、こう指摘する。

「戦後わずか60年で十一の旧宮家がすでに八家になっており、およそ四半世紀の後には五家まで減少することが確定的となっている」(小学館文庫『語られなかった皇族たちの真実』270頁)
▽評論・著述活動で知られる竹田恒泰氏(file)
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『豊饒の海』にモデルとして登場する東伏見宮家と北白川宮家は、いずれも将来の皇籍復帰が叶わない旧宮家だった。大長編の執筆時期は昭和40年代前半。偶然ではあるが、興味深い。

一方、残ったのは久邇宮家、賀陽宮家、朝香宮家、竹田宮家、東久邇宮家。「僅かに5家…」と嘆くのは早い。これら旧宮家は、次世代を担う男系子孫に恵まれている。
▽秋篠宮殿下ご一家H28年11月(宮内庁)
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そして旧宮家の他に、今上陛下の御血統に近い男系男子も存在する。「悠仁さま御1人」という世迷い言に惑わされてはならない。実は、豊饒たる御皇胤の世界が闇に埋もれたままになっているのだ。

【メディアが封印する旧宮家】

「国民の知らない方が突然皇籍復帰し『この人が陛下です』といっても到底受け入れられない」

1月の国会論戦で朝敵野党の売国議員は、そう旧宮家の方々を罵った。不敬すぎる暴言に絶句する。“女性宮家”策動に加担する反日メディアの主張も同様だ。なぜ、あからさまな嘘を吐くのか…

昭和の御代の終わり、先帝陛下が床に伏された際、足繁く宮内庁病院に通われた方々がいらした。東久邇宮家の人々である。病院前には報道陣が常時待機していたが、出入りが報道されることはなかった。



先帝陛下の第1皇女・成子内親王は昭和18年、東久邇宮家に嫁がれた。2年後に誕生された信彦王は、先帝陛下にとって初孫で、たいそう可愛がられたという。

戦後、続いて2人の男子が御生誕。溺愛された孫たちが病院に見舞い、最期を看取ったのだ。東久邇宮家が皇籍を剥奪されても、成子元内親王殿下が先帝陛下の愛娘で今上陛下の姉であることに変わりはない。



“女性宮家”を絶叫する手合いは、男系継承を軽視すると同時に、今上陛下の姉の子息達を無視する。余りにも底の浅い主張だ。そして先帝陛下の孫にあたる3人の男性には、現在5人の男子がいらっしゃる。

先帝陛下が長女の嫁ぎ先に東久邇宮家を選ばれたのは、皇統の断絶を予防し、傍系である伏見宮系を強固にする為だ。同様の婚姻は、明治時代から始まっていた。
▽竹田宮恒久王妃昌子内親王
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明治大帝の第6皇女・昌子内親王殿下が嫁がれたのは竹田宮家で、明治末に恒久王殿下と御成婚。竹田恒泰氏の曽祖母にあたる。この為、皇籍を剥奪された後も竹田宮家は、御皇室と親密な関わりを保つ。

「国民の知らない方々」などではない。御皇室と旧宮家の関係は「菊栄親睦会」を通じて今も続き、皇居には同会の専用室もある。メディアが一切触れないだけなのだ。

【正統なる皇裔120人の豊饒】

「現在、天皇の血を受け継いでいる男系男子が120名もいらっしゃるんです」

お馴染みの近現代史家・水間政憲氏が驚愕の事実を明かす。範囲を旧宮家以外にも広げると、皇位継承者は100人を超えるというのだ。一体、どのような形式の算出なのか。



継嗣に恵まれた5宮家の当主や竹田恒泰氏の同世代を含めても、30人に満たない。そこで登場するのが、旧宮家以外の御皇胤だ。徳島文理大の八幡和郎教授は、こう解説する。

「意外なことに、旧宮家よりも現皇室と血統的にはるかに近い男系男子の人々も多くいるのである」(『新潮45』1月号40頁)

時代は約200年遡る。御皇室の直系ルーツにある光格天皇の父が閑院宮2代・典仁親王だ。弟君は、五摂家の一つ鷹司家に養子入りし、第21代当主・鷹司輔平となる。
▽閑院宮家にルーツ持つ御皇裔(『新潮45』1月号より)
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「今上陛下とはサリカ法典式の数え方だと伏見宮系よりはるかに近く、しかも、男系男子がかなり分厚い」(前掲誌42頁)

サリカ法典式とは男系・長子優先を基本とする欧州の王位継承法だ。これに従って鷹司輔平の男系子孫を辿ると、幕末の高僧・本寂(ほんじゃく)に連なり、華園真準氏に至る。

「サリカ法典方式においては、皇族以外では、もっとも今上陛下に近い存在で14親等である」(前掲誌43頁)
▽真宗興正派本山 興正寺(同寺FB)
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親等では伏見宮系の失われた宮家よりも圧倒的に近い。しかも華園真準氏は「一般市民」とは程遠い人物だった。末寺486寺の頂点に立つ真宗興正派・興正寺の元門主で、子息の華園真暢氏は前門主だ。

参照:京都新聞4月3日『「命尊さ伝える」 真宗興正派、華園沙弥香さん門主後継者に』

残念ながら、この華園家は男系が途絶える見通しだが、八幡教授によると本寂上人の男系子孫は、公爵・梶野家、男爵・徳大寺家に残るという。継嗣は共に格式の高い神社で神職などを歴任している。
▽御皇胤が宮司を務める長野神社(河内長野市HP)
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大宮司も大僧正も、確かに一般的な知名度は低いが、「国民が知らない方々」とは違う。俗世と距離を置き、決して名前や恩を売ることなく、国民の為に祈り続ける聖職者だ。

古来、天皇は神道の最高位祭主であり、仏教最大の庇護者だった。奇しくも、皇籍を失った皇胤に伝統的な姿が浮かび上がる。それは、戦後あるいは明治期のメディアが封印した國體の本義かも知れない。

御皇室に関わる国会議論など不要にして不敬だ。帝は開闢より、穢れた武将や卑俗な政治家の触れられない領域におわす。



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【side story】

後桃園天皇が継嗣なく崩御された後、光格天皇が即位される。その際、上皇が最初に推したのが伏見宮貞敬親王で、短期間ながら継承をめぐる議論が起きたという。伏見宮は血統的に既に遠かったが、その点は問題にはならなかった。皇位継承で、俗にいう血の「近さ」「遠さ」は重要視されない。八幡教授は、サリカ法典式で求めた意外な御皇胤を紹介しているが、冒頭で「頭の体操」と断っている。

参照:旧宮家旧皇族写真館

参考文献:
三島由紀夫著『春の雪』『暁の寺』
竹田恒泰著『語られなかった皇族たちの真実』(小学館文庫H23年刊)
小田部雄次著『天皇と宮家』(新人物文庫H26年刊)
『新潮45』’17年1月号掲載『今上陛下に血統の近い知られざる「男系男子」たち』八幡和郎

参考記事:
デイリー新潮『今上天皇に血統の近い、知られざる「男系男子」の存在が!』



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