石原都知事“信念の尖閣航路”…直談判で挫折した34年前

40代半ばの石原慎太郎は、僅かな手掛かりを追って尖閣所有者に直談判し、挫折した。それから34年…状況は変わり、絆は甦った。国民の大きな声援を受け、一度敗れた夢が現実に変わろうとしている。
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「今栗原一族所有の尖閣諸島を日本の領土として確保するために必要な手立ては、政府の覚悟以前に国民全体があの島々の今後の日本、いやアジアにとってのさまざまな深い意味合いについて知り直すことだと思う」

石原都知事は平成11年に上梓した『国家なる幻影』の中で、そう記していた。10年以上も前の国政回顧録だが、尖閣をめぐる危機的状況が今に至って更に強まっていることは明らかだ。

「大宮まで訪ねて、栗原未亡人とその長男の当主と面会し、すでに栗原一族が地権者となっていた尖閣諸島のたとえ一部なりとも我々有志に売っては貰えまいかと頼み込んだ」(前掲書372頁)
▼『国家なる幻影』(下巻)文春文庫
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同書には尖閣諸島の現所有者である栗原国起氏と初対面した際の模様も綴られている。時期は明記されいないものの、前後の文脈から日本青年社が魚釣島に灯台を建設した昭和53年頃だろう。

当時の石原慎太郎議員が地権者に会うまでには紆余曲折があった。尖閣諸島が個人から個人へ譲渡されている事実を知り得ていなかったのだ。最初に接触したのは、尖閣の開拓者・古賀辰四郎氏の親族だった。

「なんとも不甲斐ない政府を突き上げるために、我々自身があの尖閣諸島の一部でもいい、地主になってことに当たろうと、仲間を代表して(略)古賀ハナ子さんなる老婦人を訪ね、なんとしてでもあの島の一部でもいいから私たちに売って欲しいとお願いに行った」(前掲書371頁)
▼尖閣列島開拓記念碑(八重山日報)
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古賀ハナ子さんは、辰四郎氏の息子・善次氏の未亡人で、そ当時は那覇市に暮らしていた。今も昔も血気盛んな石原都知事は、いきなり沖縄に乗り込んだのだ。対面したハナ子さんは、こう答えている。

「何が起ころうと、お国が私たちを守って下さるに違いないと承知しておりますから」

きっぱりと断られたのだ。ところが、この時に初めて石原議員は地権者が変わっていた事実を知る。新しい地主は、埼玉の大宮市在住だという。石原議員はその住所を聞き出し、改めて交渉する決意を固めた。

しかし、一筋縄ではいかなかった。

【「尖閣を自力で守りぬきます」】

「その相手がこと尖閣諸島に関することならいかなる人にも会わない、一切話もしないという、その理由も教えてもらえなかった」

栗原国起氏の連絡先が判っただけでは埒が明かなかったのだ。交渉は霧散しかけたが、国起氏の母親が石原都知事の「実母の親友の親友」であることが判明した。
▼成田での緊急帰国会見4月19日(産経)
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石原議員の熱意と執念と偶然が重なって、面談の約束を取り付けることができたのだ。初対面時に石原議員は「一部でも」と売却を懇願したが、栗原氏は拒絶。その理由は少し複雑だった。

「(栗原氏の)答えは、志は多とするが自分たちは過去の経験からして日本という国の国家権力を一切信用していません、政府が何であろうと誰であろうと、自分たちはその権利を他の何に訴えても自力で守りぬくつもりでいますということだった」(前掲書372頁)
▼魚釣島上空の海自P3C10月(産経)
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栗原一族は地元に広大な土地を持つ素封家だったが、戦中戦後にかけて政府による一方的な土地収用を経験していたという。「お国が守ってくれる」と語る古賀未亡人とは正反対だった。

交渉の余地なし…固い意志を知った石原議員は、尖閣の所有者が生粋の日本人であることに安堵しつつ、引き下がった。だが同時に、漠然とした不安と疑問も呈している。

「あの島の地権者である日本人の権利を守り通すことが出来るものだろうか。彼等が三度その貴重な所有地を理不尽に奪いさられることはないと、現今の日本政府の態様を眺めれば言い切れるものではとてもなさそうだ」(前掲書372頁)

ここに記された「現今」が、初対面時なのか執筆当時なのかハッキリしない。それでも中共遠洋海軍が東シナ海に登場し、民主党政権が屈中外交を繰り広げる現在よりケタ違いにまともな時代だった。
▼所有経緯説明する栗原弘行氏(産経)
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栗原一族に尖閣買い取りを持ちかけてから34年…石原都知事が譲渡計画を表面化させたのは、危機レベルが極限に達したと判断した為である。このままでは「日本人の権利を守り通すことが」できない。

そして尖閣買い取りが幻に終わった当時との違いは、所有者自身が強い危機感を共有していることだ。

【34年間不変だった尖閣への思い】

「当然必要なら、そういう発想のもとに前へ進めるということも、充分ある」

官房長官の藤村修は4月17日、尖閣の国有化も“有り得なくもない”との見解を示した。石原都知事の突然の公表を受け、その場を取り繕った格好だ。

栗原一族は、国家権力を信用しないとのスタンスから出発している。根回しもなく政府が買い取り計画を提示しても交渉が進まないことは明白。必要なのは、地権者から信頼を得る地道な作業である。

ところが、現政権は信頼関係を築くどころか、不信感を生む材料しか提供してこなかった。都知事による買い取り交渉を仲介した山東昭子参院議員によれば栗原国起氏は、こう語ったという。

「政府には国益を守る感覚がない」

民主党政権に対する絶縁宣言に等しい。つまり、話の順序がまったく逆なのだ。都への売却交渉が始まったのは昨年秋のことだという。直接の動機が侵犯船事件だったことは想像するに容易い。

「個人で所有して国を守るには限界がある」

所有する尖閣3島を手放すことについて栗原氏は、そう漏らしたという。かつて「自力で守り抜く」と決意していた地権者に侵犯船事件をめぐる政権の無様な対応は、激しい動揺を与えたのだろう。
▼米財団で講演する石原都知事4月(AP)
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そこで白羽の矢が立ったのが、30年以上前から面識がある石原都知事だったのである。政府がしゃしゃり出る幕はどこにもない。最初から石原慎太郎という政治家ありきの売却計画だ。

地権者に直談判するという34年前の石原議員の少々無謀に見えた行動は決して無駄ではなかった。そして、その間、尖閣への思い入れが僅かにもブレなかったことが大きい。

これ程の長い歳月、尖閣諸島の重要性を訴え、行動し、論じて来た政治家は石原都知事の他に存在しない。自らが中心となって島々を“譲り受ける”資格を十二分に備えているのだ。

【政府・メディアが隠した最初の危機】

魚釣島の灯台建設に石原都知事は深く関わっていた。かつて都知事が所属していた自民党内の憂国議員グループ「青嵐会」が後ろ盾となり、国粋団体が設置したものだ。この逸話は割と知られている。

また「尖閣は日米安保の対象外」としたモンデール駐日大使発言に激高し、ワシントンに押し掛けたのは平成8年のことだった。そんな石原都知事は何故、40代半ばの頃、尖閣買い取りに奔走したのか?
▼青嵐会の結成S48年(石原議員:左端)

前出の国政回顧録には直接の動機となった出来事についても手短に記されている。シナ武装漁船200隻の尖閣海域来襲だ。初めて尖閣諸島が侵略の危機に晒された大事件である。

「福田改造内閣政権下の昭和五十三年四月に入って今度は中共からの漁船、それもかなりの重火器で武装した漁船が尖閣諸島海域への侵犯を繰り返すようになり、北京は大陸棚などの海洋地政学における新しい要因を掲げて尖閣のシナ領土としての正統性を主張し始めていた」(前掲書365頁)

第1次尖閣クライシスである。このシナ武装漁船団来襲を受け、国粋団体の有志が尖閣上陸を敢行。そして同じ年の夏に灯台が建設される。無策の政府に変わる国民のカウンター・アクションだ。
▼尖閣に来襲したシナ武装漁船(琉球新報)
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青嵐会メンバーが領土護持活動をバックアップする中、石原議員は尖閣防衛の一手段として別動する。それが、尖閣の一部買い取りを目標にした栗原邸訪問だった。

昭和53年4月に起きたシナ武装漁船団の尖閣来襲事件は約2週間で終息した。海自・海保との武力衝突にこそ発展しなかったが、中共による組織的・計画的な軍事侵攻に他ならなかった。

「北京がおびただしい数の武装漁船、つまり沿岸警備のための海軍舟艇を派遣して尖閣周辺で操業する日本漁船を駆逐してみせても、国民は鼻白んだが、政府はいつものことなかれ主義で通り一遍の抗議をしただけで、むしろこの件に関する詳細の情報を公開せず国民の関心を塞ごうとしていた」(前掲書366-7頁)

当時の政府・与党は、同年夏の日中条約締結に向けて前のめりになっていた。元から中共寄りの野党も問題を提起しない。また、メディアの大半は、偽りの“日中友好ムード”醸成に必死だった。

結局、中共が尖閣に向けて初めて発動した軍事オプションは、見事に「なかった出来事」にされてしまった。それが現在にも大きな影を落とし、尖閣報道の歪みを生み続けている。

【変わらぬメディア、変わった国民】

「国交正常化40周年という節目の年を迎えた日本と中国ですが、石原東京都知事の尖閣購入計画が友好ムードに水を差し…」

一部のメディアは、5月14日に閉幕した日支韓サミットが不調に終わった原因を石原都知事になすり付けた。暴論や因縁といったレベルですらない。捏造報道の範疇である。
▼日支韓サミット5月14日(ロイター)
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まず、「都知事が購入」という表現は不適切で、本質は「地権者が売る」ことなのだ。34年前に臨戦状態を経験しても頑なに買い取りを突っぱねた地権者が、今回は自ら売却交渉を持ちかけた。

この重要な点を反日メディアは、完全に無視してお粗末な石原批判を繰り返す。国交正常化40周年の節目に武装監視船を尖閣海域に増派しているのが中共だ。
▼接続水域に侵入した武装船5月2日(11管)
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実際に尖閣海域で発生しているアクションをスルーし、一方で「友好ムード」などという無意味ワードを乱用する。こうした手法は、34年前から何も変わりない。

象徴的な侵犯船事件と、それに前後して常態化した中共武装監視船の尖閣海域襲来。加えて中共艦隊は毎年、南西諸島を威圧しながら公然と沖縄近海を通過するようになった。

中共による軍事プレゼンスを高まりが、地権者の危機感を強めたことは明らかだ。第2次尖閣クライシスが、どれほど深刻なのか…栗原一族からの渾身の警告をメディアは故意に見過ごしている。
▼D.C.で記者団に答える都知事4月(産経)
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東京都が設置した尖閣募金は僅か半月余りで6億5千万円を突破した。これも無能無策の政府、そして尖閣の真実を隠すメディアに代わる国民のカウンター・アクションだ。
参照:東京都知事本局HP『尖閣諸島寄附金について』

第1次尖閣クライシスの際、有志が上陸して灯台を設置したことを一部の新聞は『右翼、尖閣諸島の魚釣島を占拠』と書いたという。石原都知事は回顧録の中で、そうした報道姿勢に強い疑問を呈している。

「国民なりの危機感による国土確保のための、国土への愛着なり執着にのっとった行為がただの『右翼的行為』でしかなく、上陸があたかも他国の領土への侵犯とも思われかねぬ占拠という言葉で表現報道されるような国家社会はどこか狂っている、というか何かが大きく欠落してしまっているとしかいいようない」(前掲書371頁)

いま一度、噛み締めたい言葉だ。反日メディアは変わっていないばかりか、より醜悪に、より狡猾になっている。だが、募金支援の急速な広がりに現れているように、国民の意識は変わった。
▼都知事から募金支援者への謝辞
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「みんなでこの国を守りましょう」

石原都知事は募金者に謝意を伝えると共に、そう訴えた。かつて青嵐会の有志も同じ思いを抱いていただろうが、届くことはなかった。彼らの主張は34年の時を越え、いま日本列島に谺している。



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【side story】

“のっぴきならない諸事情”で更新を怠った挙げ句、沈黙していたことをお詫びいたします。本人は至って健やかなのですが、周辺で災厄が連鎖した…想像を絶する事態に巻き込まれたとっては過言だけれども。徐々に日常を回復しつつあるので、今後も不定期ながら更新してゆく所存です。しかし、5月半ばが過ぎても国政が激動期に入ってないとは逆に恐れ入ったw 

☆西村幸祐さんの新著『幻の黄金時代~オンリーイエスタデイ‘80s』が5月に発売されました。『表現者』の長期連載をまとめた待望の一冊です。
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バブルに象徴される1980年代を背景にサブカルから磯田光一まで自由に往来しながら日本の歪みを抉り出した本格的な社会評論です。一般的な時代論に留まらず、そこから根深い問題を現代に照射していることは言うまでもありません。異様な売国政権が生まれた原因も、この時代にあったと指摘されています。それは決して昭和中期や平成と切り離された「特殊な時代」でもなかったのです。

「八○年代は決して<脱戦後>の時代でも、脱モダンの時代でもなく、むしろ、構造的に完璧なまでに完成された<戦後>にどっぷり浸かった時代であり、日本人が戦後レジーム(体制)そのものを最も享楽的に、オプティミスティックに、そして疑いもなく生きた時代だったのである」(同書177頁)

また80年代に突如生まれた教科書の「近隣諸国条項」や、見過ごされた拉致事件の出発点など“反日問題の追及”も大変興味深い内容です。

☆もう発行から1ヵ月以上が過ぎましたが、WAC出版「歴史通」5月号に筆者の対談が掲載されました。既にお読みになった方も多いかと存じます。本号が出た時期に合わせてブログ休止中というお粗末ぶりで、関係者の皆様にご迷惑をおかけしました(血涙)
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「歴史通」は毎号完売状態なので、お近くの書店で見当たらないケースもあると思いますが、もし発見したら、是非ご覧下さい。本号も内容が充実していますが、「歴史通」については創刊間もない時期、あの花うさぎさんが「隅から隅まで面白い」と珍しく激賞されていたのを今でも思い出します。

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