花うさぎさん英霊の御元へ…Z旗の紳士かく戦えり

精力的な現地取材で知られる憂国派ブロガーの重鎮・花うさぎさんが12月27日、永眠されました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
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「いやあ、すんばらしい!」

お会いした際、まず一言目に飛び出す言葉は、決まってそうでした。小気味の良い、闊達な江戸っ子口調をいま懐かしく思い出します。

わが畏友にして憂国陣営の大先輩だった花うさぎさんが天長節の翌々日、急逝されました。残念でなりません。無念でなりません。

深い悲しみを越えて、やり場のない憤りのような一種名状し難い感情にとらわれています。

脳梗塞で倒れたのち、意識はついに戻ることなく、永い眠りに就かれたと聞きます。享年63。今後の一層の活躍が期待される中、早過ぎる人生のフィナーレでした。謹んで慎んで哀悼の意を表します。



あの日、私は迂闊でした。無休で走り続けてきたブログの更新が、12月26日に止まった時です。異例の事態です。それでも私は、使われているPCの不調程度にしか、考えなかったのです。

やがて当コメ欄ほかの情報で、ショッキングな事実を知ることになります。その時、花うさぎさんのお身体は、重大な現象に見舞われていたのです。緊急入院、意識不明…

にわかに信じたくないという想いが、どこかにあったのでしょう。12月14日の反日陣営との直接対決の折、お元気な姿を拝見したばかりでした。いつも通りの花うさぎさんとお会いし、撮影した写真を頂く約束するなど普段と変わりなく過ごしたことを覚えています。

迂闊でした。重篤な容態と知っても、年が明けて暫くすれば、再びお話しすることも出来るだろうと浅はかにも思っていました。しかしながら、それは二度叶わぬ事となりました。

直面した現実は冷酷で残酷だったのです。

《総司令官を喪った世界》

拙ブログの読者の皆さま方こそ馴染み深いのではないでしょうか。コメントのやり取りを交わされた方も多いと存じます。

花うさぎさんが“登場”されたのは、もう5年も前に遡ります。いつも温かい励ましを下さり、大きな支えになったことを良く覚えています。

私が直接、面識を得たのは、それから2年半が過ぎた頃でした。平成21年5月のNHK抗議デモの時です。西村幸祐さんに紹介して頂いたのが始まりで、それ以来の“デモ友”であり、同志でありました。

▼演壇前で撮影準備する花うさぎさん
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最初のNHK抗議で対面した時、まさか頻繁に保守系デモが計画・実行され、繰り返し逢うようになるとは思ってもいませんでした。時代の流れの中で交流を深めたとも言えるでしょう。

デモ参加の楽しみが、終了後の花うさぎさんとのチルアウトタイムでした。余韻を感じつつ、時局について取り留めもなくお話したものです。

花うさぎさんは学生時代は体育会系で、根っからの民族派だったと聞いたのも、そんなひと時のことでした。団塊左翼は最も嫌いなカテゴリーの生物ですが、反面、あの当時、真正保守思想を貫いた少数派の日本男児を尊敬してやみません。花うさぎさんは、そうした貴重な体験を持った方でもありました。
▼温家宝入国抗議5月(写真提供:K&M様)
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プライベートに関わる事柄を伺う機会は、少なかったように思います。売国政権の誕生以降、直面する時局の問題で手一杯で、お互い余裕がなくなっていたのかも知れません。

それ以上に私は、無限ではないにせよ、時間はまだたっぷりあると考えていたのです。抗議デモや集会以外にも、毎年巡ってくる8月15日の靖国神社や憂国忌の会場で、末永く顔を合わせることになると無邪気にも信じていました。

しかし、時間は限られたもので、終わりの刻は突然やって来ました。

そして花うさぎさんの訃報は、もちろん私個人の哀しみに留まりません。執筆を続けられていたブログ「花うさぎの世界は腹黒い」は、ネット発の政治運動のうねりを詳細に伝える貴重な情報発信基地でした。私たちは、そのベースの司令官を喪ったのです。

「分け隔てなく、どんな活動でも取材されて『頑張れ日本』も『在特会』も客観的に伝えて来た。日本の新しい政治の動きを伝える語り部だった。代え難い人で、他に居ないんです」

■15分35秒から花うさぎさん追悼


12月28日OAのチャンネル桜「年末スペシャル討論」の冒頭、西村幸祐さんは花うさぎさんをそう悼みました。正に、余人をもって代え難い唯一無二の存在でした。

繰り返します。12月27日、私たちは、進むべき路を指し示してくれる総司令官を突如、喪ったのです。

《Z旗のジェントルマン》

草の根が立ち上がった新しい政治の動きは、これからも止むことはありません。来年も再来年も反日陣営を迎撃するデモや集会が数多く行われます。

行進するデモ隊列、街頭で唱和する君が代。その時そこに、私は花うさぎさんの亡き影を必ずや追ってしまうでしょう。居ないと解っていても、追い求めてしまうでしょう。

1000人を超える大規模デモであっても、人垣の中から花うさぎさんを探しだすことは、意外に簡単でした。ひと際目立つ大きな旗を見つければ良かったのです。

雄々しく翻るZ旗。それが花うさぎさんのシンボルです。皇国の存亡を賭けた決戦の秋。こよなく愛していただけではありませんでした。花うさぎさんは「今がその時だ」と常々仰り、警鐘を鳴らしてきました。



12月25日未明に脱稿した最後の記事は、Z旗の素晴らしさと必要性を改めて問い掛ける内容でした。「奇しくも」という表現が適切とは思いませんが、今となって、そこに重い意味が加えられました。

遺志です。残された者へのメッセージです。

最後のエントリは、海自イージス艦「ちょうかい」に翻ったZ旗のスクープに関するものでした。正論2月号掲載の記事を紹介すると共に、率直な想いが語られています。

「Z旗が掲げられた自衛隊は皇国のために命をかける麗しき皇軍だ!」

最初に赤い大文字で宣言された後、こう綴っています。

「帝国海軍の勝利のシンボル旗が海上自衛隊にも受け継がれているのか、と感激してこのスクープ写真を何回も見つめました。嬉しいです」

このセンテンスを何回も読み、見つめました。写真を眺めて微笑む花うさぎさんの姿が目に浮かびます。そして「嬉しいです」という一言に何故か胸が締めつられます。

参照:12月25日記事『イージス艦「ちょうかい」にひるがえったZ旗』

Z旗を掲げた紳士…私が持つ花うさぎさんのイメージと「ちょうかい」の写真が、ぴったりと重なります。花うさぎさんが25日朝、何回も見つめた画像を、どうか皆さんも見つめて下さい。
▼11月4日沖縄県南東海域(転載)
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私たちは、幻の軍艦に乗っています
目の前には蒼い空と群青色の海
司令官が夢見た「真の日本」は
朧げにも見えません
それでも私たちは向かいます
必ず、この手で取り返します

総員、右舷甲板に整列
そして、最敬礼―



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【追記12月31日】

12月30日、花うさぎさんの通夜が東高円寺でしめやかに営まれました。都議会議員をはじめ、保守論壇の各氏、新しい政治運動の担い手ら大勢が参列し、花うさぎさんの人脈の広さと人望の厚さを改めて感じ取りました。

式場の入り口には数葉の写真の後ろに、花うさぎさんが愛用されていたZ旗が添えられていました。初めてお会いした時に手にされていたものです。鮮やかな色彩が、鮮やかな記憶として甦ります。そればかりではなく、棺にもZ旗が納められたとのことです。
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花うさぎさんと親交の深かったsakuraraさんが、当エントリを含む多くのブログ追悼記事を紙面化され、棺に納めて下さいました。URLなど詳しくは、下記コメント欄をご参照頂きたく存じます。もちろん記事本編だけではなく、お寄せ下さいました追悼コメントも入っています。

参照:sakuraraボード12月29日『花うさぎさん、ありがとうございました。これからも頑張りますので応援して下さいね』

そして、同じく花うさぎさんの大切な同志だった真さんが、デモ参加中に撮影した貴重な写真を公開されました。その中には、Z旗を手にされた花うさぎさんのショットもあります。私が面識を得た第1回目のNHK抗議のひとコマです。

参照:朝靄夕凪夜桜 弐記12月30日『追悼 花うさぎさん』

行動するブロガーの第一人者としてリアルタイムで新しい政治の波をドキュメントされたのが、花うさぎさんの最も大きな功績ですが、一方で、『WiLL』『歴史通』『正論』最新号の注目記事を紹介・解説されていたこともオリジナルな展開でした。

そして、在日参政権議論が沸騰していた頃、民主党代表選の党員・サポーター投票に重大な問題があることを最初に指摘されたのも花うさぎさんでした。後に国会でも質疑が行われることになりましたが、誰もが見落とす中、ただ独り気付き、逸早く警告したのです。
▼出棺~最後のお別れ12月31日(真さん撮影)
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当エントリでは最後の記事に遺志を見出しましたが、より明確な遺志、あるいは座右の銘と呼べるであろう一文があります。それは当初から「世界は腹黒い」の左サイドに記されている『凛として愛』のエンディングナレーションです。

日本よ 陽はまた昇る 

祖国日本を防衛するために 

陸 海 空に散華された方々に

私たちは誇りと 叡知を此の胸に抱き 

凛として愛を捧げる

それがあって 初めて

日本の 新しい時代が始まる


残された私たちで「新しい時代」を切り開きましょう。

合掌

平成二十三年 大晦日

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