南機関とビルマ独立義勇軍…「三十人志士」武人の絆

ビルマの英雄アウンサン将軍の誕生には皇軍の特務機関が深く関わっていた。秘密基地で軍事訓練を受けた「三十人志士」…そして独立義勇軍の創設。独立への茨の道を共に歩んだ日本人がいた。
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昭和17年2月。ラングーンの東70キロに位置するペグーの町は、突然の恐怖に見舞われた。列をなして行進して来る兵団を一人の農民が郊外で見かけ、不穏な噂が急速に広まったのだ。

「ついに日本軍が来た…」

駐留していた英軍兵は色を失い、直ぐさま荷物をまとめて町を立ち去り、市民は無防備のまま放置された。英国植民地政府の悪宣伝によって当時の皇軍は恐れられ、家々は固く門戸を閉ざした。

夜が開けた頃、町に入ってきた兵団の叫ぶ声が町中に響き渡った。

「ドバマ(われらビルマ)、ドマバ、戦いは勝利だ」

ビルマ語だった。行進してきたのは日本軍ではなく、ビルマ人の軍隊であるBIA(ビルマ独立義勇軍)の小隊だった。隊列の先頭で旗を掲げた隊長らしき人物は町民に対し、こう語りかけた。

「我々はビルマ独立義勇軍である。攻撃を加える為にやって来たのではない。平和な暮らしを守る為にやって来たのだ」
▽孔雀をあしらったBIA旗(YouTubeより)
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恐怖に覆われていた町は一転して歓喜に包まれた。演説が行なわれた広場は群衆で埋め尽くされ、BIAは歓迎の嵐で迎えられた。英国植民地の桎梏から解き放たれた瞬間である。

この時、旗を掲げて演説した隊長は、ボ・ソオアウン。ビルマ独立史に大きな足跡を残す「三十人志士」の一人だ。数々の伝説と栄光に彩られた「ビルマ三十人志士」は、今も、そして永遠にビルマの英雄であり続ける。

その「三十人志士」に軍人訓練を行なったのが「南機関」と呼ばれる皇軍の特務組織だった。

【独立の闘士アウンサンとの出会い】

昭和15年6月。讀賣新聞駐在員・南益世を名乗る人物がビルマに入国した。記者という身分は偽装で、南益世の正体は、帝国陸軍参謀本部の鈴木敬司大佐(陸大41期)。入国の目的は現地の独立運動家と接触を図る為であった。

当時、参謀本部ではビルマ国内で地下に潜った独立派と連携し、反英闘争を支援する計画が練られていた。日支紛争の収拾に目処がつかなくなる中、武器の道であるビルマ・ルートの遮断が最終的な目標である。大陸内部の残留シナ軍に対し、英軍が物資を公然と運び込んでいたのだ。
▽鈴木敬司大佐(『世界から見た大東亜戦争』)
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鈴木敬司大佐が偽装して入国した時、すでにビルマ独立運動の調査は進んでいた。帝国海軍出身の国分正三元大尉、そして日本山妙法寺の永井行慈上人が独立派と密かに連携し、高度なインテリジェンスを獲得、ヒューミントも充実していた。

そうした人脈を辿って鈴木大佐は、独立派の重鎮タキン・コンドマインや親日家のティモン博士と密かに接触し、ビルマ独立の必要性を説く。そこでティモン博士が有力人物として名前を挙げたのが、タキン党の闘士アウンサンだった。

反英運動で指導的な役割を担うタキン党は激しい弾圧を受け、メンバーの多くは地下に潜伏。その1人だったアウンサンは懸賞金をかけられ、海外に脱出していた。すれ違いだった。

潜伏先は福建の厦門(アモイ)だという。ティモン博士から顔写真を入手した鈴木大佐は、参謀本部に照会。直ちに上海エリアの諜報機関が動き出し、2ヵ月後にアウンサンら2人との接触に成功する。

シナ軍との連携を試みていたアウンサンらは、日本軍からのコンタクトに驚くが、独立派重鎮に通じていると知るや態度を翻し、日本との共闘を快諾。この時、アウンサン、26歳。

ビルマ独立に向かう歴史の歯車が一気に動き出した。

【ビルマ三十人志士 海南島に集結】

日比混血児に偽装したビルマ人が羽田空港に降り立ったのは、昭和15年11月のことだった。アウンサンとラミヤンの2人である。鈴木大佐は出身地の浜松に2人をかくまが、参謀本部側の対ビルマ計画が定まらず、半ば宙ぶらりの状態に置かれたという。
▽来日したアウンサン(右端)とラミヤン(『ビルマ独立秘史』より)
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しかし、それも僅かな期間だった。翌年初めにビルマルート遮断の問題が緊急課題となったことで、海軍軍令部が在ビルマ諜報機関の設置を要請。それを受けて2月1日「南機関」が産声をあげた。

機関長に抜擢された鈴木敬司大佐の偽装名「南益世」をもじって名付けれた名称だ。機関設立に海軍も深く関与していた為に「南機関」は大本営直属という特異な性格を持つことになった。また南機関には複数の中野学校出身者に加え、大川塾の軍属が含まれていたことも特徴だ。

南機関に与えられた最初の作戦行動は、数十人のビルマ人に軍事訓練を施し、軍事エリートを育成することであった。そして、アウンサンらは同志の脱出を手引きするべく、祖国潜入の命を受ける。
▽浜松時代の和装のアウンサン
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南機関員の全面協力のもと、アウンサンはタキン党の地下ルートなどを駆使し、有力メンバーとのコンタクトに成功。陸路・海路を経て日本に辿り着いたビルマ人青年は30人に上った。

彼らが後に英雄と称される「ビルマ三十人志士」である。

日本に集結した30人のビルマ青年は、箱根で束の間の静養を終えると、シナ最南部の海南島に赴いた。気候条件がビルマに似通っているという理由で選ばれた場所だが、訓練地は海南島・三亜の町から50キロ離れた密林の中だった。

【頭角を現した1人のひ弱な青年】

大東亜戦争開戦まで8ヵ月を切った昭和16年4月。海南島・三亜訓練所での軍事訓練プログラムが始動した。その内容は皇軍の将校育成コースを土台に、「戦闘・戦術の指揮」といった基本的なものから「国内擾乱に向けた情報収集活動」「地方行政」にまで及んだ。

本来なら2年以上かかるプログラムを3ヵ月以内に修得しなければならない。更に叛乱を呼び込むゲリラ戦術も学ぶ必要がある。人知れぬジャングルの奥での過酷な訓練だ。
▽海南島での軍事訓練(『ビルマ独立秘史』より)
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ところが、訓練初日は味気ないものだった。命じられたのは訓練所の清掃と周囲のゴミ拾い。闘志燃えたぎるビルマ青年たちは「軍事訓練の為に来たのに」と一様に気色ばんだ。

三十人志士の1人ボ・ミンガウンは回想録の中で、その時アウンサンが仲間の怒りを鎮めた、とのエピソードを紹介している。

「今日の訓練は、われわれの根性と忍耐心を試したんだ…」

そしてアウンサンは、自分達はか弱く、大英帝国を倒すには忍耐こそが大切だと説き、結束を固めたという。やはり、リーダーに相応しい人物だった。

アウンサンはコングレス(国民会議派)の大会に参加してインド各地を巡るなど、既に国際舞台に名を印していた人物で、「三十人志士」の中でも別格。だが経歴以外にも強いカリスマ性を持っていたようだ。機関長の鈴木大佐も全幅の信頼をおいていた。

「三十人志士」のメンバーは戦後のビルマ政界に転出した者も多いが、知名度が高いのはネウィンだ。
▽ネウィン(左)とアウンサン
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1962年の軍事クーデターで政権を奪取し、独自の社会主義国家を整えた後、88年まで院政を敷いた将軍である。海南島時代の日本名・高杉晋。ネウィンは当初、30人の1人に過ぎなかったが、成績優秀で最終的にはリーダーの一角に登用される。

もし「三十人志士」から漏れていたら、後にネウィンがビルマの統治者に昇りつめることはなかった。そしてクーデター後のビルマが鎖国に近い政策を続ける中、我が国と特殊な関係を保つこともなかっただろう。

【潜入作戦を遅らせたアジア情勢の急変】

南機関を率いる鈴木敬司大佐は、明確なビジョンを持っていた。

「三十人志士」を中核に兵員を増強、タイからビルマ南部に浸透し、対英蜂起を促す。一部地域の支配を手掛かりに独立を宣言、臨時政府を樹立する…

昭和16年7月に「三十人志士」の軍事訓練は終わりを迎えた。初期段階の計画では、時をおかずビルマ浸透作戦に移る手筈だったが、大本営からゴーサインは下されなかった。
▽「三十人志士」と鈴木機関長(前右3人目)
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南機関は、祖国凱旋を急ぐ志士達と軍上層部の板挟みになり、鈴木大佐らを大いに悩ませた。それをアラビアのロレンス的な苦悩と捉えるのは、いささか物語風だ。

その年の夏、我が国を中心としたアジア情勢は、歴史の大きなうねりの中に放り込まれていた。

6月にはオランダが植民地・蘭印から日本への資源輸出を停止した。米国が7月に対日資産凍結を発令すると英蘭も追従。そして、8月になると米国は石油の対日輸出全面禁止に踏み切る。ABCD包囲網の完成。我が国は追い詰められた。

国家の存亡を賭けた巨大プロジェクトが動き始めていたのだ。ビルマ南部の叛乱を意図した南機関も、中央情勢を見守るしかない。

三亜訓練所に待機していた志士達は、台湾の玉里やバンコクなどを転々とし、最終的にサイゴンに移される。僅か2人がタイ国境からビルマ潜入に成功したのは12月3日のことだった。

【ビルマ独立義勇軍ついに姿を現す】

「兵士諸君。本日誕生したビルマ独立義勇軍は、その兵力・装備・熟練度に関しては、決して第一級の軍隊ではない。しかし、その精神力、独立のために命すら捧げようという強固な決意までを合わせて考えるならば、これはもう素晴しい力を備えた軍隊であるといって過言ではない」(『アウンサン将軍と三十人の志士』106頁)

アウンサンは閲兵式で誇らしく訓示した。年の瀬に行なわれたこのセレモニーをもってBIA(ビルマ独立義勇軍)が誕生。近代ビルマ国軍が産声をあげた瞬間でもある。

閲兵式の舞台は、奇しくもビルマの宿敵タイの首都だった。大東亜戦争開戦を受けてアウンサンらはサイゴンからバンコクに飛来。その直後にBIAは公然と姿を現したのだ。

南機関は大本営直属から南方軍司令部の麾下となり、そして開戦と同時にタイに進駐した第十五軍に組み込まれた。それでも特異な性格は変わらない。機関員の日本軍人・軍属74人が加わっていたが、皇軍とは別組織だった。鈴木大佐はBIA司令官という肩書きを持ち、アウンサンは参謀総長に就任している。
▽軍装のアウンサン
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発足に際して志願入隊したタイ在住のビルマ人は約200人で、尚も“小さな軍隊”であったが、1世紀以上も英国によって武器を取り上げられていたビルマ人にとっては画期的な出来事だった。

そして、BIAは誕生の余韻に浸る間もなく、タイ国境を越えて英領ビルマに進撃して行く。

【膨れ上がるBIA祖国へ凱旋】

BIAは主に3隊に分かれてビルマ国内に兵力を進めた。鈴木大佐やアウンサンらによる主力部隊。南機関ナンバー2である川島威伸大尉(BIA中将)指揮下の兵団。さらに平山季信中尉(BIA大佐)率いる水上支隊。

BIA主力部隊は、北回りのコースを辿って進撃した。その為に第十五軍の後塵を拝する形となったが、土地勘に優るBIAは巧みなゲリラ戦術で敵残存兵力を粉砕。地元住民の全面協力もあって、ビルマ中央平原を流れるシッタン河に逸早く到達した。
▽渡河前に小休止するBIA部隊(『ビルマ独立秘史』より
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行軍の途上でビルマ人の志願兵は増え続け、兵力は約2000人に膨れ上がっていた。将校役となっていた「三十人志士」メンバーが即席の軍事訓練を施しながらの進行であったという。

BIA主力部隊の快進撃に加え、川島兵団も主要幹線のマンダレー街道を強硬突破、英軍の退路の一角を切り崩すなどの活躍を見せた。そして、平山水上支隊の大胆な行動は、首都決戦を大きく様変わりさせている。

最南部から海岸に沿って北上した平山水上支隊は、首都ラングーンの後背地にあたるデルタ地帯に敵前上陸を敢行。その際、地元民の間に「日本軍数千名とビルマ義勇軍2,000名が攻撃準備中」との偽情報を流す。

退路遮断を恐れた英軍は首都を放棄して撤退。結果的に、激烈な市街戦が行なわれることなく、昭和17年3月9日にラングーンは陥落した。
▽陥落に湧くラングーン市内(YouTubeより)
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なお、平山水上支隊は首都陥落の歓喜をよそにイラワジ河本流を遡上、英軍との激戦で平山支隊長が被弾、命を失っている。

【雷帝、東方より来る】

3月25日、英国支配から脱したラングーン市内のスタジアムで華々しい式典が催された。BIA観閲式である。年末に200人規模で産声をあげたBIAはその時、兵員数3万人にのぼっていた。

BIA最高指揮官・鈴木敬司大佐は白装束を身に纏って登場する。鈴木大佐のBIAでの呼称はボ・モージョー(=雷帝)。
▽BIA観閲式の“雷帝”鈴木大佐(『ビルマ独立秘史』より)
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ビルマ最後の王朝が英軍に倒された後、現地ではひとつの民間伝承が生まれた。それは「雷帝、東方より来たり、ビルマ族の解放をもたらす」というもので、BIAの進撃途中「雷帝来る」の噂は瞬く間に広がった。

一部の戦史家は、これを鈴木大佐の巧みな情報操作と断定している。しかし、南機関の主要メンバーだった泉谷達郎氏によれば、偶然の産物で、鈴木大佐が民間伝承を知ったのはビルマ進撃の途中だったという。また、その名付け親はアウンサンでもある。

雷帝率いるBIAは熱狂的に迎えられたが、南機関は苦境に立たされていた。ビルマ南部攻略後も、ラングーン陥落後も、ビルマ独立宣言は行なわれなかった。当初の約束は果たされなかったのだ…
▽市内を行進する鈴木大佐ら(『ビルマ独立秘史』より)
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英軍部隊は未だ北部にあり、またビルマ族に反感を抱く他民族の平定もままならなかった。その中で“ビルマ政策”を司る第十五軍が主権移譲を行なう余裕はない。「時機尚早」の一言で退けられた。

鈴木大佐は、約束不履行は不測の事態を生み出しかねないと重ねて警告。陸士同期の那須軍政部長と激論を交わしている。

「英霊はビルマを軍事占領することを目的に倒れたとは決して思わん。むしろビルマ人の協力によって最小の犠牲で済んだのではないのか」(『ビルマ独立秘史』189頁)

ちょうど同じ頃、INA(インド国民軍)も誕生し、もはやビルマ情勢は南機関の志とは別に、高度な問題と化していた…

【苛立ちの中のビルマ海軍創設】

独立宣言の保留に反感を募らせていたのは、アウンサンも同じだった。軍政部の方針は南機関員を通じてBIA中枢の志士達にも伝わっていた。彼らの憤懣の知った鈴木大佐は3月末、ラングーンの私邸にアウンサンを招き、こう直言している。

「もし俺がお前の立場だったら、手に入りかけた独立を絶対に逃しはせんぞ。独立はどうすれば獲得できるか、歴史をみればはっきりしている。独立は他人がくれるものじゃないんだ。だから、ビルマ人が独立を勝ち取るために反乱を起こすと言ったって、なにも不思議じゃない。それはまったく当然のことなんだ」(『アウンサン将軍と三十人の志士』134頁)
▽ビルマ時代の鈴木大佐
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鈴木大佐は軍刀を置き「まず俺を殺せ。それから独立の戦いをやれ」と言い放つ。アウンサンの心はひどく痛んだ。そして「機関長がビルマに居る限り反旗は翻さない」と誓うと、それ以上は語らず、2人は粛々とビルマ北部の熾烈な戦場に向かった。

第十五軍と南機関の溝は何ひとつ埋まらない。それでも鈴木大佐は様々なプランの現実化に向け、矢継ぎ早に手を打った。

ラングーン市民向けの病院開設・住宅の確保・銀行創設・日本語学校開校。更に、永井行慈上人の勧めでビルマ仏教会と連携。僧侶の影響力は絶大で、これが全土の治安回復のに大きな役割を果たした。

BIAの総仕上げも重要だった。護郷軍を整備し、3万人規模の兵員から3千人を選抜したBDA(ビルマ国防軍)への改編に着手。鈴木大佐はビルマ海軍の創設に尽力した。
▽陣容を整えたビルマ海軍(『ビルマ独立秘史』より)
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同時に南機関は、その役割を終えようとしていた。

【機関長去り「南機関」消滅す】

「近衛師団司令部付を命ず」

鈴木大佐に辞令が交付されたのは6月末のことだった。事実上の更迭である。北部戦線から急遽ラングーンに戻ったアウンサンをBDA司令官に命じ、鈴木大佐は7月14日にビルマを去った。
▽ビルマを去る鈴木大佐(YouTubeより)
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更に「三十人志士」から兄と慕われた機関ナンバー2の川島威伸大尉にも転出命令が下され、南機関は自然消滅。誕生から1年と6ヵ月のことであった。

軍令部と激しく対立した鈴木大佐だったが、ペナルティを科せられることもなく、1年後には少将に昇進。陸軍内には南機関の役割を評価する勢力があったようだ。

南機関消滅の直後からビルマ独立行政府の準備が進み、英国に投獄されていたバー・モウ博士を救出。翌18年8月1日、バー・モウ首相によってビルマ独立が宣言された。
▽歴史に埋もれたビルマ独立の日(YouTubeより)
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この政府に対し、批判的だったアウンサンも国防相に就任。同時にBDAはビルマ国軍と再度名称を変え、「三十人志士」の多くが国防省・国軍の重要な部署を占めた。

ビルマ情勢は落ち着き、バー・モウ首相が「大東亜会議」に参加するなど日緬の関係は強化されていったが、そこに大規模作戦が新たな影を落とす…インパール作戦だ。

援蒋ルートの遮断を目的としていた対ビルマ作戦は、全土からの英軍追放、根拠地インパール攻撃に変わり、最後にはインド国民軍のアッサム地方凱旋計画へと、壮大な広がりを見せた。

昭和19年3月に始まったインパール作戦は、我が軍に膨大な犠牲者を出し、敗北に終わった。北の要衝マンダレーも英軍の手に落ち、完全に形勢は逆転した。
▽インパール作戦の行軍
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日本軍の敗色が濃くなった昭和20年3月末、左派グループとも連携したアウンサンの決断でビルマ国軍は決起した。いわゆる反日蜂起である。

【日本軍に向けられた銃口】

果たしてアウンサン将軍は憎むべき裏切り者だったのか?

我が軍が配った武器で反撃してきたことに日本国内では憤激する声が高まった。だが一方で、日本の敗戦を予感する者も少なくなかったという。

アウンサンらにとっては日本軍と共に倒れるか、英軍と通じて独立を貫くか、ギリギリの選択だった。仮に英国が再植民地化を進めるなら、最終的は英軍とも矛を交える覚悟だったとも言われる。
▽英軍と通じたアウンサン将軍
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決起直前にアウンサンはバー・モウ首相に長い手紙を寄せている。そこには、こう綴られていた。

「私には日本人を責める気持ちはありません。(略)貴兄には今は理解しかねるかも知れません。でも信じて下さい。しばらくすれば私の真意がどこにあったか、判って頂けるでしょう」(『世界から見た大東亜戦争』312頁)

反日蜂起で日本軍には3,000人を超す犠牲者が出たが、不思議なことに軍関係者から怨嗟の声は殆ど聞こえて来ない…

反日決起の際、「三十人志士」メンバーのうち3人は参加を拒み、ボ・ミンオンは日本人への義を立てて自決した。
▽BDAから改編したビルマ国軍
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その時、旧南機関のメンバーで唯一人、高橋八郎中尉がビルマ国軍顧問として残っていたが、アウンサンは救命指示を出している。武装解除を行なった「三十人志士」の1人ボ・ゼヤは沈痛な面持ちで、高橋中尉に、こう語りかけた。

「我々は不本意ながら反乱を決意しました。あなたには済まないと思っています。…どうか我々の苦衷もご理解して下さい」(『アジア独立への道』230頁)

一方で我が軍も反乱ビルマ国軍との激しい交戦を避け、シャン高原に撤退、程なく大東亜戦争は終結した。

【最高栄誉「アウンサンの旗」勲章】

終戦後、本格的に英国が戻ってきた。しかし、かつて支配したビルマとは全く違っていた。

戦後も国家の中枢にいたアウンサンは、英国政府と交渉を続け、主権移管を約束した「アウンサン=アトリー協定」の締結に成功。しかし同時に内部抗争も激化し、昭和22年7月、テロリストに暗殺される。

厦門(アモイ)で初めて皇軍と接触してから6年…その間、アウンサンは全力疾走を続け、凶弾に倒れた。享年32。悲劇的な最期を遂げた7月19日は「殉難者の日」として今もビルマの暦に刻まれている。
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もしアウンサンが国家の主人公であり続けたならば、我が国とビルマの戦後史もまた異なったものになっていた筈だった。国父とされる将軍は、終戦間際に牙を剥けたが、終世、南機関員には義理を感じていたようだ。

終戦後、英軍は見せしめの為にビルマ戦線に関わった旧日本軍人を相次いで連行。鈴木敬司少将も“戦犯”容疑でラングーン刑務所に収監されたが、アウンサンらは「ビルマ独立の恩人を裁判にかけるとは何事か」と猛反対し、釈放させることに成功した。

南機関に対する「三十人志士」の思い入れは共通で、中心メンバーだったネウィンは、クーデター後の昭和41年に鈴木少将を招待。さらに56年にはビルマ最高の栄誉である「アウンサンの旗」勲章を授与し、偉業を称えた。
▽最高勲章授与(『アジアに生きる大東亜戦争』より)
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勲章が贈られた7人全員が南機関の関係者だった。

既に他界していた鈴木少将に替わって未亡人が式典に参列したが、その際、夫人は書状を携えていた。それは、昭和17年に鈴木大佐(当時)がビルマを去る時に、アウンサンらから手渡された感謝状だった。
▽贈呈された感謝状((『アジアに生きる大東亜戦争』より)
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感謝状には鈴木大佐がビルマ兵を抱き上げ、鉄の鎖を解くイラストが添えられている。そして、文面には、こう記されていた。

「父親が子供に教え諭すがごとく、その子供を守るがごとく、雷将軍は真の愛情をもって、ビルマ独立義勇軍の兵士全員を教え、全員をかばい、全員のことに心を砕いてくれた。ビルマ人は、その老若男女を問わず、このことを忘れることは決してない。

今日の世界で確固とした独立を自らのものにするためには、ビルマ独立軍のような地上軍だけに頼るわけにはいかない。雷将軍は、かくてビルマ海軍の創設にも着手したのである。

ビルマのためにこのような骨折りをした雷将軍は、いまや日本に帰らんとしている。われらは、ビルマ独立軍の父、ビルマ独立軍の庇護者、ビルマ独立軍の恩人を末永く懐かしむ。

将軍のビルマ国への貢献も、いつまでも感謝される。たとえ世界が亡ぶとも、われらの感謝の気持が亡ぶことはない」



     〆
最後まで読んで頂き有り難うございます♪
クリック1つが敵に浴びせる銃弾1発 となります

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【side story】
戦中の日緬史で最も大東亜戦争の精神を理解していたのはバー・モウ首相であったが、原典不備の為、軍関係にテーマを絞って政治面は割愛した。

ビルマ独立運動は急進的なタキン党などビルマ人による下地があった。その源もまた、日露戦争での我が国の勝利に感銘したオッタマ僧正の反英活動に求められる。


Free Burma!


参考文献:
▼泉谷達郎著『ビルマ独立秘史~その名は南機関』(徳間文庫)昭和63年刊
▼田中正明著『アジア独立への道』(展転社)平成3年刊
▼ボ・ミンガウン著『アウンサン将軍と三十人の志士』(中公新書)平成2年刊
▼名越二荒之助編『世界から見た大東亜戦争』 (展転社)平成3年刊
▼村上兵衛著『アジアに播かれた種子』(文藝春秋社) 昭和63年刊
▼ASEANセンター編『アジアに生きる大東亜戦争』(展転社)昭和63年刊

参考動画:
『独立アジアの光 ビルマ(現ミャンマー)独立の父』


『ミャンマーで大東亜戦争はどのように教えられているのか』

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