三島由紀夫の「在日論」…第36回憂国忌によせて

諫死から36年間、一度も途切れることなく続く「憂国忌」に行ってきた。わが民族に大きな問いを残して世を去った三島由紀夫。いくつかの論文には日本人がなお抱える諸問題への解答がハッキリ書かれている。
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11月25日。

毎年この頃には関東平野に本格的な冬の寒さが訪れる。あの日、市ヶ谷台のバルコニーは晩秋の日差しに照らされていたが、その光景はどこか寒々しく、悲痛な色合いを帯びていた。

三島由紀夫、森田必勝の憂国の諫死から36年。日本列島に与えたその衝撃はどれほど大きなものだったのか…

事件から16日、作曲家の黛敏郎や作家・林房雄ら43人を発起人にして「三島由紀夫氏追悼の夕べ」が東京・池袋の豊島公会堂で開かれた。

駆けつけた人々の数は開場時間までに5000人を超え、この日の追悼会は伝説となった。

それから36年。主に九段会館で開かれている「憂国忌」は、36回目にして初めて「追悼の夕べ」と同じ豊島公会堂で開かれた。
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午後6時半の開演を前にして、1階席は埋まり、急遽2階席が開放された。定員数から推測すると700人以上が詰めかけたようだ。36年という長い歳月を経ても、三島由紀夫の影響力は未だ衰えを見せていない。世代を越えて根強い支持者が生まれ続けている。

今回の憂国忌には、三島と親しかった女優・村松英子さんやチャンネル桜の水島総社長、文芸評論家の富岡幸一郎さんや山崎行太郎さん、そして愛弟子と言える宮崎正弘さんらが駆けつけ、三島との思い出や憂国の想いを熱く語った。
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筆者は宮崎さんの新刊『三島由紀夫の現場』を会場で購入したが、サイン本は売り切れ、改めて宮崎さんがその場でサインを綴っていた。宮崎さんは36年前の「追悼の夕べ」では裏方として奮闘した方だ。ほぼ満席となった同じ会場を見て、どの様に感じられたのだろうか。

【民族派の知識箱としての三島】

三島由紀夫は文学者として膨大な数の作品を残した。大方の作品は読破したが、現代の軽めの小説とは異なり、いずれも重厚な純文学作品だ。難解な単語や格調高い言い回しと格闘した覚えがある。

三島・谷崎・川端の3人は、昭和戦後文学の最高峰として現在も揺るぎない評価を受けている。

だが、三島由紀夫が残したものはそれに留まらない。

文学者であると同時に、新民族主義の旗手であり、日本の保守思想を切り裂いた思想家でもある。
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バブルの余韻が残る頃、評論家は度々、三島が語った「からっぽな経済大国」というフレーズを援用して、経済中心の日本社会を批判した。

また、自衛隊の海外派兵に絡んでは三島が打ち出した自衛隊二分論も取り沙汰された。国連派遣用の部隊を予め設置する案だ。

ある評論家は、こう解説する。

三島の論文には、わが国のナショナリストが直面する難問への解答が悉く示されている。

本当だろうか?

【三島由紀夫の「在日論」】

朝鮮総連にも繋がる在日朝鮮人の問題について、三島が明確なコメントを残している…と言っても誰が信じようか。

それが、あるのだ。

日本文化と国体の関係性を語った有名な「文化防衛論」の中に不思議な一節がある。

「戦後の日本にとっては、真の民族問題はありえず、在日朝鮮人問題は、国際問題であり、リフュジー(難民)の問題であっても、日本国内の問題ではありえない。

これを内部の問題であるかの如く扱う一部の扱いには、明らかに政治的意図があって、先進工業国における革命主体としての異民族の利用価値を認めたものに他ならない」

*新潮文庫『裸体と衣装』初版306頁

ズバリ本質を突いている。これは昭和43年に執筆されたものだ。今から38年も前に三島はストレートに語っている。

総連や反日メディアを攻撃する際の理論武装として充分に活用できるではないか…

なぜ、三島由紀夫が在日コリアンをめぐる問題に踏み入ったのか、簡単に補足しておこう。

執筆前に、あの金嬉老人質事件が発生し“抑圧されて激発する異民族”が吹聴されたようなのだ。金嬉老が“被害者である我々朝鮮民族”を訴えて殺人を犯しながらも一部で英雄視される事態を三島は重く受け止め、持論を披瀝したものと想像する。
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この前段でも三島は異民族問題を語るうえでの前提を示している。

「敗戦によって現有領土に押し込められた日本は、国内に於ける異民族問題をほとんど持たなくなり、アメリカのように一部民族と国家の相反関係や、民族主義に対して国家が受け身に立たざるをえぬ状況というものを持たないのである。

(略)従って異民族問題をことさら政治的に追及するような戦術は、作られた緊張の匂いがする(略)」

難解な言葉が埋め込まれた部分は略してしまったが、誤解を避ける為にも是非「文化防衛論」を読んで頂ければと願う。長い論文ではない。

更にその4ヵ月後にも同じ問題に斬り込んでいる。

~「反革命宣言」から抜粋~

「左翼がいう、日本における朝鮮人問題、少数民族問題は欺瞞である。

なぜなら、われわれはいま、朝鮮の政治状況の変化によって、多くの韓国人をかかえているが、彼らが問題にするのはこの韓国人ではなく、日本人が必ずしも歓迎しないにもかかわらず、日本に北朝鮮大学校をつくり、都知事の認可を得て、反日教育をほどこすような北鮮人の問題を、無理矢理少数民族の問題として規定するのである」

朝鮮総連やそのシンパの危険性を三島は早くも感じ取り、その問題点をズバリ提示している。1960年代に、このような認識を持って警告を発した知識人が他に居ただろうか。

更に、三島は続く文章でも重要な指摘をしている。

「彼らはすでに、人間性の疎外、民族的疎外の問題を、フィクションの上に置かざるを得なくなっている」

総連が叫ぶ“我々の悲劇”が虚構であり、“強制連行”が嘘の神話に過ぎないことを三島は知っていた。

そして、連中がフィクションのうえでしか主張できないと喝破していたのだ。後に嘘に嘘を重ねて行く悪行を予見していたかのようでもある。
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注:69年発行の新潮社単行本『文化防衛論』に収録された「反革命宣言」17~18頁から抜粋。同書は絶版。ちくま文庫から『文化防衛論』が出版されているが、「反革命宣言」が含まれているかは不明

【三島は反日ファシズムにNOを叫んだ】

戦後の日本を否定し続けた三島由紀夫には、時折、深い絶望感も顔をのぞかせる。歪み切った世論形成に不快感を表すことも稀ではなかった。

英国の『QUEEN』誌に寄稿した論文には、極めて平易な言葉で不満が語られれている。

「私は日本の戦後の偽善にあきあきしていた。

私は決して平和主義を偽善だと云わないが、日本の平和憲法が左右両方からの政治的口実に使われた結果、日本ほど、平和主義が偽善の代名詞になった国はないと信じている。

この国でもっとも危険のない、人に尊敬される生き方は、やや左翼的で、平和主義で、暴力否定論者であることであった」

わが国の言論空間に疑問を投げかけ、三島由紀夫はそれに対して「知識人とは危険な生き方をするべき者ではないか」と考える。

この態度表明が後の「行動」に直結しているようにも見える。
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では、三島が闘いを挑んだものは何だったのか?

30数年前、三島は思想戦で間接的に我が国が侵略を受けていると認識していた。

「私は自然に、軍事上の『間接侵略』という概念に達したのである。間接侵略とは、表面的には外国勢力に操られた国内のイデオロギー戦のことだが、本質的には、(少なくとも日本にとっては)日本という国のIdentityを犯そうとする者と、守ろうとする者の戦いだと解せられる」

拙ブログでは「媚中派メディア」とか「中共の意を受けた売国マスコミ」などといった表現を好んで使っているが、三島はそれを「表面的で本質ではない」と叱る。怒られた気分になるのは良いことだ。

三島が言う「日本のアイデンティティー」とは何なのか?

それは連綿と続く日本文化の同一性であり、その頂点に天皇があると考えられる。

我が国には、他の先進諸国にあるような右翼vs左翼の構図を越えた概念が存在すると捉えていたようだ。つまり、左翼は「リベラル」といった生易しいものではなく、国体・文化・伝統を破壊する一大勢力として想定している。

犯そうとする者vs守ろうとする者

ここに登場する「犯そうとする者」こそ反日ファシストであり、「守ろうとする者」の最大の敵が反日ファシズムである。

三島由紀夫の言葉を借りれば、守るべきものとは「真の日本」である。
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それは市ヶ谷のバルコニーに掲げられた三島の最後のメッセージ「檄文」に記された言葉だ。

自決の直前、三島は「真の日本」を「夢に見る」と叫んでいる。

*三島由紀夫研究会Webサイト『檄文』
http://www.nippon-nn.net/mishima/geki/

【文学作品は読まなくても良い?】

三島思想を理解するには、膨大な作品群を読まなければならないのだろうか?
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読まなくても良い。

…と三島本人が断言している。

「盾の会」に参集した若者たちについて三島はこう評価している。

「俺の小説なんか全然読んでいないんだ。それが良いんだよ」

三島はそう言って豪快に笑ったそうだ。その頃会った複数の友人に繰り返し語っていることを見ると、本心からそう考えていたのは間違いない。

頭デッカチの文学青年への痛烈な皮肉であると同時に、決して「行動」に移らない同世代の知識人に向けられた非難の言でもあろう。

だが、紹介したように三島由紀夫が晩年に書き残した政治論文には緻密で現在にも通用する本質的なテーマが散りばめられている。

「敵」と対峙する時の理論武装の書として極めて重要だ。

そして文学作品にも「英霊の聲」や「奔馬」など新民族派の先駆けとなる思想が苛烈な表現で綴られていて、見逃せない。

最後の長編大作「豊穣の海」第二巻である「奔馬」は、明治初めに熊本で起きた神風連事件に光を当て、神道奥義を細かに描くなど昭和維新の精神性の高さを解き明かした作品だ。

第一巻の「春の雪」を読まなくとも理解の妨げになることはない。一冊を挙げるとすれば迷わず「奔馬」である。

また「英霊の聲」は誰にとっても衝撃的な内容だろう。国体護持を叫びながら、逆臣として処刑された2・26将校が投げかける言葉は悲痛である。

「などてすめろぎはひととなりたまいし」

先帝陛下の戦後の“ゆらぎ”を、戦前処刑台に散った将校が諫言する。既成右翼はそのショッキングなストーリーを「英霊ではなく悪霊の声だ」と批判・攻撃した。

複雑極まる、天皇への情熱の形である。
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「英霊の聲」に関する評論・解説は数多く出されているが、今に至っても完全な解読がなされていないように思える。直感的に読むしか方法はないようだ。

翻って、こうした難解な思想こそ三島文学が幾度となく甦る理由だろう。

【来年の憂国忌に向けて】

来年の第37回も再来年の第38回の憂国忌も必ず開かれる。福岡憂国忌も同じだ。

自決後に開かれた「追悼の夕べ」、そして第1回憂国忌で発起人となり、陰に陽に支えてきた文化人の多くが他界した。

時間の流れには逆らえない。

しかし、新たに発起人として名を連ねる文化人も続々現れている。

憂国忌で配布される小冊子の最後のページには発起人の名が刻まれてるが、最近では

小林よしのり氏  水島総氏

西村幸祐氏  富岡幸一郎氏 

八木秀次氏  黄文雄氏
 
など、活躍著しい論客たちを見出すことが出来る。

没後もこれだけの長きにわたってリスペクトされ続ける文学者・思想家は我が国では希有の存在だ。一方で、三島が投げかけた問いが何一つ解決されずに、残されてしまっていることの証左でもあろう。

三島由紀夫は生前「自分の行動は2、300年後でなければ理解されないだろう」と書いていた。

それについて、最大の支持者だった林房雄は憂国忌趣意書にこう記している。

「まず少数の理解者が彼の精神を想起し拡大する『憂国忌』に集まろう。『2、300年後』という嘆きを50年、10年後にちぢめて、三島由紀夫の魂を微笑せしめるために」
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11月25日…
毎年、木枯らしが吹くと憂国忌が近付いてきたことを知る。

時間が許す限り、来年も再来年も会場に足を運ぶだろう。そして、三島の慟哭が高らかな笑声に変わるその日まで、「真の日本」を取り戻す戦いは終わることがない。

三島チルドレンであることを今、誇りに思う。

           〆
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