李登輝総統の居るアジア史…哲人政治家が遺した道標

“台湾国のモーゼ”は捏造史の海を割り、埋もれていた真実に光を当てた…李登輝総統閣下は北東アジアの近代史そのものだ。100年史の終焉が迫る中、決着は遺志を継ぐ人々に託された。
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「銃後にあって治安保護の戦士としてお国に尽くすこともご奉公ですが、出来る事なら第一線でお国の為に華々しく活躍したいと思っておりましたが、それが本当になりました」

昭和18年9月22日付け台湾日日新報の記事である。我が海軍に志願し、合格された台北市在住・岩里武則君の熱意ある言葉が、顔写真と共に掲載されている。
▽「宿願実現、感激におののく」の見出し(日本李登輝友の会)
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岩里武則君は台湾名で李登欽さんと云う。台湾国・李登輝元総統閣下の兄上だ。李登欽さんは台湾で志願兵の募集が始まると真っ先に応じ、記事掲載の翌月、高雄の訓練所に入所した。

高雄警備府の海兵団で研鑽を積んだ後、南洋方面の激戦地に向かう。詳しい足跡は不明だが、最後の赴任地は、比・マニラだった。そして昭和20年2月15日、彼の地で散華される。享年24。
▽元総統閣下と兄・李登欽さん:右S18年(日本李登輝友の会)
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「父は遺骨が還らないことから、兄が死んだことを最期まで信じなかった」

李登輝元総統閣下は後年、そう語っていた。日付がはっきりしている一方で、ご遺骨が還らないのは何故か。散華された場所に関して、マニラ市の他、マニラ湾という記述もある。
▽空襲と艦砲射撃で壊滅したマニラ中心部S20年5月(file)
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苛烈を極めた米軍のマニラ空襲は昭和19年11月に始まり、市内の軍施設はほぼ壊滅し、残存艦艇も既にブルネイ方面に脱出。市街戦で敵兵を迎え撃った可能性もあるが、記録に残る戦没日が気に掛かる。

昭和20年2月15日は米軍のコレヒドール島上陸前日。マニラ湾口では、震洋部隊が出撃し、米上陸船艇部隊と戦った。震洋とは、船首に約250㎏の炸薬を搭載した小型ボートだ。海の特攻部隊である。
▽出撃例は少なかった震洋一型(file)
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李登欽さんは特攻部隊に加わり、マニラ湾内で壮絶な最期を遂げられたのではないか…震洋特攻隊に関する文献は乏しく、調べ尽くすことが出来ずに今に至った。

何よりも、李登輝元総統閣下への報告が叶わなかったことが悔やまれてならない。

【60年を要した九段への険しい道】

「その頃は兄が靖国神社に祀られているとは知らなかった」

靖国神社に初めて参拝した折、李登輝元総統閣下は周囲にそう話した。副総統だった時代に何度かトランジットで東京を訪問したが、実兄が御英霊として祀られていることを知らされていなかったという。

日本側の不手際だが、平成19年(’07)の初参拝は、内外に大きなインパクトを与えた。時期的には、靖国論争とも呼ばれた特ア反日勢力からの因縁が再燃する最中であった。
▽靖国神社に到着した元総統閣下H19年6月(読売)
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「60年以上会っていない兄貴が靖国神社にいる。弟の私が東京まで来ている。貴方ならどう思うか?」

難癖を付ける反日メディアの記者を一喝した。拝殿前を埋め尽くす日の丸と緑の台湾独立旗…この上もなく爽やかな思い出として脳裏に刻まれている。そして元総統閣下は参拝後、こう語った。

「魂との再会は勿論ですが、同時に、戦後数十年もの間、兄の霊を慰め護ってきてくれた靖国神社に感謝の思いを伝えたかったのです」
▽靖国に駆け付けた日本人有志ら H19年6月(AFP)
AFP神社に集まった日本人有志ら.jpg

南方で生きていると信じる父親の言葉に従い、兄・李登欽さんの葬儀は営まれず、祭壇もなかった。そうした中、元総統閣下は一族の代表として参拝を果たしたと述べた。

正論だった。靖国参拝に対しては中共外交部のスポークスマンが毒づいた程度で、国内の反日陣営は沈黙した。哲人政治家は、突破する力を備えていたのだ。
▽「祭神之記」を見る元閣下ご夫妻 H19年(友の会)
靖國神社で兄、李登欽(日本名・岩里武則)氏の「祭神之記」に見入る李登輝氏=平成19年6月7日(日本李登輝友の会.png

その突破力は、無理やり扉をこじ開けるような荒っぽいものではなかった。用意周到で慎重だ。総統勇退後の再来日から靖国神社参拝に至るまで実に6年を要している。

55年ぶり再来日となった平成13年(’01)の時から、元総統閣下の“政治的な動き”は警戒されていた。反対勢力は中共に忖度する外務官僚で、ビザ発給を巡り当時の森首相に対しても強気で抗った。
▽再来日で歓迎を受ける元総統閣下 H13年4月(時事)
時事治療で来日し、ホテルに到着した際に笑顔を見せる李氏=2001年4月撮影、大阪市北区.jpg

李登輝元総統閣下が秀れているのは、そんな無様な日本政府の立場を熟知し、自ら時間を掛けて道を拓いたことだ。八田與一の故郷や母校のある京都などを訪問し、漸く九段に辿り着く。

あの伝説的な靖国参拝から13年が過ぎた。天国で再会した李兄弟は、何を語り合っているだろうか。

【“反日大暴風”の中の救援者】

「台湾に自由と民主主義、人権と普遍的な価値、同時に日台関係の礎を築かれた。心からご冥福をお祈りする」

訃報を受けて安倍首相は7月31日、哀悼の意を表明した。野党時代には元総統閣下の自宅を訪れるなど親交が深かったが、菅官房長官によると政府関係者の葬儀参列はないという。
▽台北の自宅を訪問した安倍首相’10年(中央社)
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国交なしの不正常な関係にあるとは言え、即答する必要はなかった。弔問外交を利用することは国際政治の常識で、早い段階で自らカードを手放すとは愚の骨頂だ。米国は駆け引きに使うだろう。

再来日に尽力した森元首相は適格である。だが、親台派の重鎮だとしても引退した政治家だ。最低ランクで麻生副総理と考えるが、仁義を貫き、無理を押し通せぬものか。
▽芭蕉像の前で俳句を披露 H19年5月(共同)
共同07年5月、松尾芭蕉像の前で自作の俳句を披露する台湾の李登輝元総統.jpg

本来なら政府専用機を準備し、与野党の議員を詰め込んで派遣すべき所だ。更に、羽田から台北まで最短コースを行かず、尖閣上空を低高度で飛行させたい。

中共が海上民兵の尖閣派兵を通告する中、時期的にも効果抜群である。李登輝元総統閣下は常に「最高のタイミング」で我が国に助け舟を出してくれた。論争再燃中の靖国参拝は、その一端に過ぎない。
▽「ひめゆりの塔」で拝礼する元総統閣下 H20年(産経)
産経「ひめゆりの塔」を訪れ、防空壕跡の前で一礼する台湾の李登輝元総統(右)=平成20年9月22日.jpg

「尖閣諸島は日本の領土です」

戦後4度目の来日となった平成20年、沖縄を訪れた元総統閣下は県知事らが並ぶ席で、そう明言した。中共が糸を引く「保釣」集団の侵犯騒ぎが過熱し始めた時期だった。

「いわゆる安保法案は日本だけではなく、アジアや世界の平和に貢献するものだと考えます」
▽衆院議員会館で講演する元総統閣下 H27年(産経)
産経15年衆院会館での講演.png

5年前の来日講演では、時局の話題にも触れた。不破哲三の紅衛兵が国会周辺で暴れ回っていた頃だ。在日シールズを組織的に支援した反日メディアは沈黙し、発言を抹殺した。

適切なタイミングの発言ではあったが、一時的なトピックに過ぎない。閣下が最も有効な一打を放ったのは、第8代総統に選出されて間もなくの90年代前半、平成初頭である。
▽意気投合する猊下と閣下’97年(Tibet Sun)
1997年1997年3月27日台北訪問チベットSUN.jpg

捏造慰安婦や南京謀略の反日プロパガンダが激化した時代だ。冷戦終決と同時に巻き起こった悪意に満ちた“日本悪玉論”の横行。史実に関する検証作業は貧しく、反論は掻き消された。

その中で唯一、国家元首として堂々と正論を述べたのが、李登輝元総統閣下だった。サンドバッグ状態の護国系日本人が、どれほど勇気付けられたことか。この恩は決して忘れない。

【「李登輝全史」未だ終わらず】

「八田與一さんがつくった1万5000キロの灌漑水路がどういうふうにできているかも分からないでいた」(『李登輝学校の教え』151頁)
▽「嘉南大圳工事」(開放博物館所蔵)
嘉南大圳工事 開放博物館.png

李登輝元総統閣下は、かつての歪んだ歴史教育を嘆く。台湾国の学童は、支那大陸史を学び、万里の長城は知っていても、八田與一が設計した嘉南大圳について教わることはなかった。

根幹には台湾人のアイデンディティーの問題があった。今の台湾国が形作られる過程を色眼鏡なしで記述し、教えなければならない。そうした強い意志が結実した新しい教科書が「認識台湾」だった。
▽地理や社会も網羅した「認識台湾」(file)
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信じ難いが、’97年に「認識台湾」が登場する以前の歴史教科書は、中共・朝鮮並だったという。大日本帝国を悪役にし、新たな統治機構を“解放者”と位置付ける単純な構図だ。

採用期間は短かったものの、旧来の国民党史観を覆し、戦後生まれの親日世代が誕生する。その影響は、やがて海を越えて我が国にも波及した。新たな歴史観の勃興とは、また趣きが異なる。
▽平泉・中尊寺を訪れた閣下ご夫妻 H19年6月(時事)
時事2007年6月中尊寺金色堂前で曽文恵夫人と写真撮影に応じる台湾の李登輝前総統.jpg

元総統閣下が取り組んだのは、体験に基づいたフラットな視点で、当時の出来事を丁寧に並べる作業だ。時系列の改竄や捏造・嘘・誇張を排除したピュアな歴史。それだけで古臭い日本悪玉論は溶解した。

最大の功績である。元総統閣下に付与される親日家という代名詞に異論はない。しかし、実体験を元に史実を語る人物を全て親日家と呼ぶことは、南鮮の悪例を見ても、健全な状態とは言えないだろう。
▽弔問の列をつくる台湾国民8月1日(AP)
AP通信8月1日弔問客.jpg

更に「民主化の父」といった表現も、やや安易だ。民主化プロセスは高い評価の通りだが、それだけではない。元総統閣下は、万年議員が巣食う国会を刷新し、因習に縛られた軍隊にメスを入れた。

「当時、誰にも言わなかったが、参謀総長を国防部長や行政院長に引き上げたのは、国民党の支配下にあった軍を国家のものにする重要な作戦だった」

叛乱の危険も恐れなかった。蒋経国と宋美齢に愛でられ、強大な権勢を誇っていた参謀総長の郝柏村を一丁上りポストに押し込む無血の軍改革。1925年から続く国府軍の静かな終焉であった。
▽息子の市長当選を祝う郝柏村'06年(自由時報)
自由時報2006年要職を歴任した郝柏村氏.jpg

ちなみに、この郝柏村も今年3月末に他界した。100歳だった。台湾メディアは「ひとつの時代に幕」と伝えたが、元総統閣下の場合も、同様に形容するのだろうか?

李登輝元総統閣下は大正12年、日本時代の台北市で生まれた。京大在学中の大東亜戦争出征、北京語に苦労した戦後の生活。蒋経国に一本釣りされてアカデミーから政界に進出…
▽最後の来日となった沖縄の旅 H30年(産経)
産経平成30年6月、沖縄県糸満市で行われた台湾人戦没者の慰霊祭で、自ら揮毫した石碑を除幕.jpg

近代台湾史の生き証人という枠を超え、1世紀に渡る北東アジア史の実体験者だ。特に中共がもたらした混乱に巻き込まれ、一時期は国家元首として緊張をコントロールする立場にもあった。

そして今、北東アジアの100年史が、大きな節目を迎えている。中共の出方次第で「ひとつの時代」の幕が降りる。決して遠くない未来。閣下が“歴史の終焉”を目撃できなったのが残念だ。
▽訃報掲載の蘋果日報を持つ台湾国民7月31日(ロイター)
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改めて、万感の思いを込めて哀悼の誠を捧ぐ。同時に、李登輝チルドレンの1人として高貴な志を引き継ぎ、中共に抗い、打ち砕くことを誓う。最終局面は、目前に迫っている。



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関連エントリ:
H19年6月8日『李前総統 再会の靖国神社…日本精神蘇らす偉人の旅』
H27年7月25日『哲人政治家が安保妄論一喝…李登輝・安倍会談の快挙』

参照:
日本李登輝友の会HP12年8月14日『岩里武則君(李登輝元総統の御兄上)、海軍志願兵合格』
https://twoffice.exblog.jp/18828612/
参考記事:
□産経新聞7月31日『【李登輝氏死去】靖国で「涙が出ます」 東日本大震災の被災地にも足運ぶ
□産経新聞8月1日『中国、台湾の独立志向の高まり警戒 態度硬直化の可能性』
□iRONNA『李登輝が日本人に伝えたい靖国への思い』
□Wedge19年7月30日『李登輝にとって憧れの存在だった「兄」との絆』
□iRONNA(『Voice』 2014年6月号)『【特別寄稿】李登輝より日本人へ「日台の絆は永遠に」』
□産経新聞R1年10月29日『李登輝秘録 第6部 薄氷踏む新任総統(5)軍を国のものに 権謀術数の人事(一部)』

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