大編隊が壊滅させた港湾部の軍事施設、沖合に消えた伊号潜水艦…要衝ダーウィンを巡って縺れた日豪の糸がほぐされる。舞台裏で尽力したのは海自艦長と1人の大和撫子だった。 米国の他、オーストラリアにも日系人収容所があったことは余り知られていない。大東亜戦争の開戦直後、4,300人を超す日系人が、ラブデー、タツラなど3カ所の収容所に連行、拘束された。 収容所は乾燥した砂漠気候のエリアに置かれ、年末年始の頃は酷く暑く、逆に冬季は凍える。過酷な環境の中、230人余りが帰らぬ人となった。 ▽豪南部にあったタツラ収容所(file) 連行された日系人の多くが住んでいたのが、豪北部の玄関口であるダーウィンだった。高値だった真珠貝が豊富に採れることから、明治末から大正にかけ、移り住んだ者が多かったという。 3カ国歴訪中の安倍首相は11月16日、日本国総理として初めて豪・ダーウィンを訪問。首脳会談に先立ってモリソン首相と共に、市内の戦没者慰霊碑に献花、黙祷を捧げた。 ▽慰霊碑に献花する日豪両首脳11月16日(AP) 「我々は決して忘れないが、許すことが出来る」 豪の歴史家は、そんな一文を地元紙に寄せた。またAPECでモリソン首相と会談した米国のペンス副大統領は、両首脳によるダーウィンでの慰霊を「歴史的な瞬間」と讃えた。 ▽好意的に伝える地元紙(産経) 76年前の蒸し暑い日、港湾部一帯に鳴り響いたサイレン。“第2の真珠湾”とも呼ばれるダーウィン空襲は昭和17年2月19日に始まり、約1年半、散発的に続いた。 第一派攻撃には、我が海軍が誇る一航戦、二航戦が参加。空母「赤城」などから発艦した九九艦爆・九七艦攻が、ダーウィン港停泊中の米豪軍艦艇、及び飛行場施設を猛爆した。 ▽「赤城」から発艦する九九艦爆S17年2月(file) 反日史観の研究者らは民間人への被害を強調するが、当時のダーウィン港一帯は米豪の陸海空軍が結集する出撃拠点だった。記録によれば人口2,000人中、女性は僅か63人。太平洋を窺う要塞都市である。 飛行場が市街地に隣接してた点は、緒戦のハワイ米軍基地攻撃に似ている。だが真珠湾とダーウィンを比べた時、そこには決定的な違いがあった。 【隠されたダーウィンの壊滅的打撃】 いわゆる真珠湾奇襲、ハワイ米軍基地攻撃は戦時中「リメンバー・パールハーバー」と連呼される。これは「卑怯な国」というレッテルを貼り、戦意高揚を狙った米政府のプロパガンダだった。 一方で「リメンバー・ダーウィン」なる掛け声は聞いたこともないが、当然だ。戦時下の豪州政府は壊滅的な被害に震え上がり、戦況を隠蔽。ダーウィンの空襲被害は死傷者41人と報道された。 ▽ダーウィン港で炎上する米豪艦船(豪戦争記念館) 「アデレード・リバー行き賞金レース」 空襲に遭遇した兵士の逃避行は、そう命名された。豪軍兵士は車や馬を駆って南に向かい、100キロも離れた田舎の村アデレード・リバーに辿り着くまで、ひと時も休むことがなかったという。 事実を知る少数の者が名付けたのか、戦後になって皮肉交じりに揶揄されたのか…詳細は不明だが、この「賞金レース」のエピソードは豪州政府観光局の歴史紹介にも登場する。 □参照:豪州政府観光局『ダーウィンの歴史を物語る観光名所でオーストラリアが第2次世界大戦に参戦した時代について学びましょう』 ▽炎上する艦船のダーウィンの労働者(file) 我が軍のダーウィン軍事拠点壊滅作戦は、豪にとって歴史上初となる敵国による本土攻撃だった。しかし、同観光局は「備えを怠り」「外国人侵攻の噂にパニックに陥った」と批判的に説く。 大規模な基地を抱えながらもインフラは粗末で通信手段も欠き、有事の際の指揮命令系統も確立されていなかったという。今も昔も、ダーウィンの地政学的・戦略的な価値に気付いていない模様だ。 参照:産経新聞H28年3月31日『豪、中国企業に北部ダーウィンの港湾を99年間貸与 海兵隊駐留の米国は反発』 ▽炎上する米駆逐艦ピアリー(file) 我が軍は昭和17年1月、南雲機動部隊がラバウルを制圧。パプアニューギニア南部ポートモレスビー攻略を目指すMO作戦の発動を控えていた。その際、敵軍の前線基地となるのがダーウィンだ。 最悪の状況を踏まえ、米豪軍が連合艦隊の動きを予測していなかったとは思えない。無防備都市ダーウィン壊滅の背後には、真珠湾の「老朽艦大集合」と同じ匂いもする。 ▽ダーウィン港で大破した商船(豪戦争記念館) 何の意図があるのか豪観光局は容赦ないが、兵士は決して臆病でも卑怯でもなかった。我が陸軍が開戦後に初めて対峙した強敵、それが豪軍部隊だった。 【日豪が山と海で闘った日】 山下奉文閣下率いる我が陸軍第25軍は昭和16年12月8日未明、英領マレー北部・コタバルに上陸。数千人規模の英軍部隊を撃破して、翌日昼までに市内を制圧する。 「少なくとも3ヵ月は日本軍を足止めできる」 英軍がそう豪語していた強固なジットラ・ラインを僅か2日で突破。ペナン島に続き、開戦の約1ヵ月後にはクアラルンプールに到達した。破竹の進撃だが、マラッカに近い山岳部ゲマスで苦戦を強いられる。 ▽マレー半島を南下する陸軍部隊(file) 南進中に交戦した英軍はインド兵主体で、敵前逃亡や投降により、総崩れになるケースが少なくなかった。その中、ゲマスで我が軍の前に立ちはだかったのが、豪軍部隊だった。 「オーストラリア兵達の勇気は、日本兵、特に彼らの指揮者によって称賛された」(名越二荒之助編『世界から見た大東亜戦争』118頁) ▽『現代シンガポール社会経済史』(前掲書より) シンガポールの中学生向け教材『現代社会経済史(85年度版)』にある記述だ。我が軍は豪軍兵の遺体を埋葬し、木製の十字架を建立。そこには、こう刻まれていたという。 「私たちの勇敢な敵、オーストラリア兵士のために」(前掲書118頁) 奇縁と表現することは妥当ではないかも知れないが、不思議なものだ。豪軍部隊と対峙した「ゲマスの戦い」は昭和17年1月12日に始まり、攻略まで4日余りを要した。 ▽マレー山岳部での戦闘(豪戦争記念館) 同じ頃、我が海軍の潜水艦1隻が密かに比・ダバオを出港し、豪北部に向った。ダーウィン沖に到達したのが1月14日だ。そして米豪軍艦艇の動きを探知・報告しつつ、機雷を敷設するなど奮闘した。 豪訪問2日目の11月17日、安倍首相夫妻は慰霊碑に献花、黙祷した。真新しさを感じさせる石碑。帝国海軍潜水艦「伊号124」の乗組員の慰霊碑である。 ▽慰霊碑に献花する安倍首相11月17日(官邸) ダーウィン沖で任務を遂行していた「伊号124」は昭和17年1月20日、米巡洋艦に捕捉され、交戦。豪海軍掃海艇「デロレイン」の投射した爆雷に触れてしまう。 原田艦長を始め、乗組員80人が散華された。同じように熾烈であっても、連戦連勝に列島が沸いたマレー戦線とは異なり、静かで哀しい最期だった。同艦のロストも米側記録から確認されたものだ。 ▽ダーウィン沖で沈んだ「伊号124」(file) それでも心優しい日本人は、遥かな海に眠る潜水艦を忘れていなかった。70年余りの歳月を経て「伊号124」は“浮上”する。 【眠れる潜水艦の“急速浮上”】 「伊号124」が消えた沖合を望むダーウィンの丘に慰霊碑は建立された。昨年2月に行われた除幕式には、乗組員の遺族も参列。散華された御英霊を偲んだ。 「75年の時を経て慰霊に訪れることができ、心より感謝します」 ▽慰霊碑前で合掌する遺族ら2月18日(共同) 慰霊碑の建立には、1人の大和撫子と海上自衛官の尽力があった。ダーウィン在住の平山幸子さんは7年前、毎年市内で催される戦没者の慰霊式に日本人として初めて参加。日豪双方の故人に祈りを捧げた。 現地の人達に非難されることも覚悟した上での参列だったという。ところが地元民は日本人を温かく迎え、激励した。それを機に、日本側の戦没者遺族に慰霊への参加を呼びかける活動が始まる。 ▽慰霊祭に参列した平山さん’11年2月(NHK) 地道な呼び掛けが花開いたのは、3年後のことだった。豪海軍主催の多国間共同訓練カカドゥ14に海自護衛艦「はたかぜ」が参加。艦長の梅崎時彦1等海佐が、止まっていた時計の針を大きく動かす。 「はたかぜ」が共同訓練を終えてダーウィンを離れる日、甲板上で初の日豪合同慰霊祭が営まれた。梅崎艦長の発案によるもので、式典には豪海軍将校や退役軍人らが参集した。 ▽合同慰霊祭の梅崎艦長:左’14年9月13日(豪ABC) 「ダーウィンを出港するにあたり、過ぐる大戦のさなか、この海域において祖国のために身を挺して奮戦、散華されました幾多の日豪の英霊に対し、謹んで哀悼の詞を捧げます」 梅崎艦長の弔辞が、参列した者の胸を打つ。日豪両軍の縺れた糸を解きほぐす行動は、これで終わらない。海外任務を終えた梅崎艦長は、一時帰国中と平山さんと共に遺族を訪ねたこともあった。 ▽遺族宅を訪れた梅崎艦長と平山さんH27年(NHK) 梅崎艦長と平山さんは、日豪合同慰霊祭の写真を紹介し、現地での歓迎ぶりを伝える。この日訪ねた遺族は「伊号124」に乗艦し、散華された田尻正男少佐の義理の妹で、夫を5年前に喪ったという。 「夫は兄の供養をしてやりたい、と。もし生きていたら、どんなに喜んだだろうと思うと涙が出ます。豪州の方の寛大さ、心の広さに感服しました」 ▽散華された「伊号124」乗員・田尻正男少佐(NHK) 遺族がいたく感激したのは、日豪合同慰霊祭の後に行われたもう一つの弔いだった。平成26年9月13日、ダーウィン港を発った護衛艦「はたかぜ」は、沖合で停止した。 ▽「はたかぜ」の洋上慰霊祭H26年9月13日(海自) 「伊号124」が眠るポイントだ。「はたかぜ」乗組員がデッキに整列し、厳かに始まる洋上慰霊祭。弔砲が響き、波間に消える。夕陽は美しく輝き、東の空には宵闇が広がり始めていた。 ▽慰霊祭を営んだ護衛艦「はたかぜ」H26年9月13日(海自) 「日豪それぞれの祖国の為に戦った英霊に哀悼の意を表すと共に、今後の日豪関係の更なる友好と発展を誓い、先の大戦で散華されました英霊が永久に安らかに眠らん事をここに謹んでお祈り申し上げます」 〆 最後まで読んで頂き有り難うございます クリック1つが敵に浴びせる銃弾1発となります ↓ ![]() 参考動画: □YouTube『【訓練・演習】豪州海軍主催多国間海上共同訓練カカドゥ14日豪共同慰霊式 洋上慰霊祭(海上自衛隊)』 □YouTube『NHK長崎放送 特集「ダーウィン空襲 慰霊の心を伝える」』 参照: □ブログ「日本は世界を平和にします」’14年10月2日『はたかぜ旋風』 □外務省HP11月16日『安倍総理大臣によるダーウィン戦没者慰霊碑訪問』 □外務省HP11月17日『安倍内閣総理大臣による豪州ダーウィンにおける伊号第124潜水艦慰霊碑訪問』 参考記事: □AFP11月17日『豪訪問の安倍首相夫妻、旧日本軍の潜水艦乗組員を追悼』 □豪ABC11月17日『Japanese Prime Minister Shinzo Abe pays tribute to 'forgotten' crew killed off Darwin in World War II』 □豪SBS11月17日『Shinzo Abe honours Japanese war dead in Darwin』 □産経新聞H29年2月17日『旧海軍潜水艦の慰霊碑除幕 豪北部ダーウィンで式典』 □日経新聞(共同)’17年1月6日『潜水艦の慰霊碑設置へ 豪北部、沈没から75年機に』 □西日本新聞(共同)2月18日『旧海軍潜水艦の遺族参拝 豪北部に慰霊碑』 □豪ABC’14年9月13日『Darwin commemorates sinking of a Japanese WWII submarine I-124 by Australian warship』 □豪NTN’14年9月13日『Japanese and Australians come together to remember the fallen』 □共同通信11月17日『安倍氏の豪慰霊は「歴史的」米副大統領が歓迎』 □産経新聞11月17日『安倍首相の初の豪ダーウィン訪問、地元紙は好意的に報道』 関連エントリ: □H26年7月14日『南太平洋を望む英霊碑…安倍首相が巡拝した激戦地』 |
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知らなかったことばかりだ。本当に為になる。ありがとうございます。 |
Sunburst 2018/11/23 12:35 |
死力を尽くして戦った者どうしは、このように和解できるのですね 良い話をありがとうございます |
ライムライト 2018/11/25 21:04 |
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