本当にあった南京大屠殺…シナ残虐史のリメイク
日本領事館を不逞シナ人が襲撃…それが史実の南京事件だ。同胞の悲劇を無視して“加害”を強調する捏造派。なぜ連中は“虐殺の動機”を無視するのか?その答えが、南京の血塗られた歴史にある。
「眼鏡を奪い取られ、目が見えないまま二階から飛び降りたそうです。腹と足を刺され、父は重傷を負いました。(略)その時に着ていた血だらけの背広をわが家では大事にとっておりました」(門田隆将著『この命、義に捧ぐ』73頁)
我が陸軍・根本博中将の長女は、そう語る。九死に一生を得た南京事件の生々しい記憶だ。根本中将は昭和24年、再び戦場に赴き、中共の台湾侵攻を水際で食い止めた日台の英雄である。
参照:22年8月15日『戦神・根本博中将の義勇…台湾を死守した大和魂』
昭和2年(’27)3月24日、武官として南京の日本領事館に勤務していた根本少佐(当時)は、そこで南京事件に遭遇。乱入したシナ人集団に素手て立ち向かったが、銃剣で刺され、深い傷を負った。
▼根本博中将閣下
領事館を襲撃したシナ人集団は、蒋介石率いる国民革命軍の正規兵だった。北伐の途上にあった国民革命軍は、その日の朝早く、南京に入城。当初は平穏であったが、程なく城内は騒擾状態に陥った。
国民革命軍の一部兵士と“民間人”が在外公館や外国人居留地を襲撃、暴行・略奪を繰り返した。事件当時、南京に居住していた日本人は約500人。その家屋は軒並み襲撃を受けた。
▼南京の日本領事館S12年当時
日本領事館に侵入した不逞シナ人集団は館員を襲い、金品を強奪するだけではなく、領事夫人を陵辱するといったショッキングな事件も引き起こした。今も昔も変わらないシナ人の典型的な狼藉である。
外交上の大事件だった。ところが、我が国や標的となった列強による蒋介石追及は甘かった。この事件の背後にも、誕生間もない中共とコミンテルンが控えていたのだ。
ソ連が国民党に送り込んだ政治顧問ボロディンは、コミンテルンの工作員。南京に入城した第6軍・第2軍の政治部主任も共産分子だった。列強の公館襲撃で蒋介石を孤立化させる作戦である。
▼南京事件で暗躍したボロディン
共産革命のアジア輸出…南京事件の構図は、そのまま南京攻略戦をめぐるフィクションにつながる。反日メディアが媚中学者が、この南京事件を一切無視する理由も判りやすい。
1927年に居留外国人が襲撃された事件は、第2次南京事件とも呼ばれる。1913年8月には袁世凱の腹心・張勲による第1次南京事件が発生。日系商店が襲われ、日本人10数人が虐殺されている。
シナ人の暴虐事件が繰り返される南京。だが、ほんの少し時代を遡ると、その地では事件という概念を超える惨事が起きている。
【シナ人による大虐殺との共通点】
「南京の北東の門の前に、爆薬二十トンを爆発させた。爆発の煙が消えたとき、その軍隊は市内になだれ込み、飢えた住民に襲いかかった。王宮と他の宮殿は、火を放たれた」(K・S・カロル著『毛沢東の中国』)
もちろん昭和12年の南京攻略戦に関する記述ではない。ここに登場する軍隊とは、清朝末期の漢族軍人・曽国藩が率いる湘軍だ。想像を絶する凄惨な歴史事実…情景は更に、こう描写されている。
「続く三日間に、十万人以上の人々が殺されたが、投降した反徒はひとりもいなかった。われわれはポンペイを思わせる人影のない街路を前進したが、焼死者の悪臭にたえられなかった」(前掲書)
これが1864年に起きたジェノサイド、本当の南京大屠殺だ。19世紀半ばに始まった「太平天国の乱」の結末である。シナ近代史を彩る著名な異教徒の叛乱だが、残酷なエンディングは余り知られていない。
「五十万と推定された人口のうち、生き残ったのは、たった五百人に過ぎなかった」
カロルの提示する犠牲者数は水増しだろう。正確な数は不明だが、今では「犠牲者20万人」が定説になっている模様だ。この20万人という規模は、示唆に富んでいる。
▼太平天国軍と清軍の長江戦図
また曽国藩の幕僚であった趙烈文は、著書『能静居士日記』の中で、虐殺は1ヵ月間続き、財宝を運び出す車列は延々3ヵ月続いたと記している。加害者側の告白であることが重要だ。
20万人の犠牲者数と3ヵ月という期間。どこかで聞いた覚えがある…20万人とは市ヶ谷で中華民国側が掲げた捏造話の犠牲者数。3ヵ月は、反日勢力が絶叫する昭和12年末からの南京の混乱期間である。
見事に一致するのは、偶然ではない。そして、南京を舞台にした殺戮の嵐は、19世紀から第2次南京事件まで続いた特異な出来事でもない。
【繰り返された南京落城の惨状】
「軍中では食糧が欠乏したので、士卒を放って民間の米穀、財宝、子女を掠奪してまわった」(『資治通鑑・梁記17』)
「数ヶ月の間に人びとが互いに食いあうに至っても、餓死を免れなかった。生き残ったものは百人中、一、二人しかいなかった」(『資治通鑑・梁記17』)
これらは548年の「侯景の乱」に関する記述だ。評論家の黄文雄氏は、南京が六朝の都として栄えた4~6世紀の間に何度も大虐殺が繰り返されたとして、複数の例を挙げて紹介している。
☆王敦の乱…322年(東晋時代)
☆蘇峻祖約の乱…329年(東晋時代)
☆桓玄の乱…402年(東晋時代)
☆王僧弁の南京大屠殺…552年(梁時代)
☆晋王楊広の南京討伐…589年(隋時代)
血塗られた南京の歴史を踏まえて「大虐殺」はこの時代の名物だったと黄文雄氏は説く。同様のアプローチで南京捏造話の嘘を暴いているのが、四川出身の石平氏だ。
▼『中国大虐殺史~なぜ中国人は人殺しが好きなのか』(石平著)
石平氏も数多の史実を挙げ、虐殺は“シナ文化”の一部と言い切る。それは、文革や天安門大屠殺など中共時代になって更に悪化。つい1ヵ月前にもチベットで組織的・計画的な虐殺を行っている。
一方で石平氏は、日本に“虐殺文化”がなかったと指摘する。もし我が国で虐殺が頻発していれば、「根切り」で悪名高い織田信長が、日本史上の特異なキャラクターとして位置づけられることはない。
20世紀に創作された物語を否定するのに、1500年前の史実を持ち出すことは突飛に見えるかも知れない。だが、これが南京捏造話を暴く核心にもなるのだ。
【中共は「動機」を設定し忘れた】
朝日新聞が南京に関する虚偽報道を始めてから既に40年以上が経過した。異様な超長期キャンペーンだが、その中で捏造派が今でも創作できないのが「大虐殺の動機」だ。
犯罪を立証する上で重要なのは物証だが、故意と認定するには動機が欠かせない。捏造派は無関係の写真流用やトリミングなどの悪質な手法で“証拠”を示してきたが、軒並み嘘が暴かれた。
物証もなく、動機も示せない…それが現在の“南京論争”の状況だ。一部の頭の弱い捏造派は「軍命令の為に兵士に動機はない」などと主張するが、命令書など存在せず、自爆に自爆を重ねる始末だ。
中共も“大虐殺”の動機を挙げていない。無関心なのだ。ここで虐殺のシナ史が役に立つ。シナ人にとって、首都決戦で迫る敵軍がジェノサイドを行うことは常識。しかも舞台は歴史的な“虐殺都市”だった。
▼南京城中山門に向かう我が軍S12年
高い城壁に囲まれた南京。そこを包囲したシナ人の軍勢が先ず火を放ち、突入後に略奪・暴行・殺戮を繰り返すことは「通常パターン」だったのである。
最初から国民党も中共も、動機を説明する必要性に気付かなかったのだ。更に中共が「動機」を党認定しなかった為に、我が国の捏造派が独自論を展開することも出来なかった。
▼捏造紀念館を訪れる菅直人02年
それがリメイクの限界だ。ゼロからフィクションを作り上げるのは難しい。昭和12年の南京捏造話は、こまでのシナ人による南京大屠殺、取り分け「太平天国の乱」のラストシーンをネタ元にしているのだ。
慰安婦捏造話は、農村の少女を拉致して売り飛ばすという朝鮮の歴史的暗部を下敷きにしていた。同様に南京捏造話も自民族が抱える物語を色濃く反映している。
▼万人抗もシナ特有の“伝統”(AFP)
南京にある捏造紀念館には、今年の段階で30万人という犠牲者数がクリップされている。この人数が論争の焦点であるが、特に逆上する必要はない。その数は「太平天国の乱」の死者数を明示している。
▼捏造派のシナ忠犬・大江健三郎
殺戮の手口も狼藉の伝統スタイルも、実際はシナ人のものだ。間違っているのは、1937~38年という年代と加害者。パネルや軍服を付け替えれば、そのままシナ虐殺資料館として明日にもオープン可能だ。
〆
最後まで読んで頂き有り難うございます
クリック1つが敵に浴びせる銃弾1発となります
↓

参照:
史実を世界に発信する会HP「茂木弘道事務局長『中国大虐殺史』(石平著)解説』
参考文献:
撃論ムック『情報戦「慰安婦・南京」の真実』~黄文雄論文『中国史は「南京大虐殺」の歴史だ』
『「南京大虐殺」のまぼろし」鈴木明著(WAC出版)
「眼鏡を奪い取られ、目が見えないまま二階から飛び降りたそうです。腹と足を刺され、父は重傷を負いました。(略)その時に着ていた血だらけの背広をわが家では大事にとっておりました」(門田隆将著『この命、義に捧ぐ』73頁)
我が陸軍・根本博中将の長女は、そう語る。九死に一生を得た南京事件の生々しい記憶だ。根本中将は昭和24年、再び戦場に赴き、中共の台湾侵攻を水際で食い止めた日台の英雄である。
参照:22年8月15日『戦神・根本博中将の義勇…台湾を死守した大和魂』
昭和2年(’27)3月24日、武官として南京の日本領事館に勤務していた根本少佐(当時)は、そこで南京事件に遭遇。乱入したシナ人集団に素手て立ち向かったが、銃剣で刺され、深い傷を負った。
▼根本博中将閣下
領事館を襲撃したシナ人集団は、蒋介石率いる国民革命軍の正規兵だった。北伐の途上にあった国民革命軍は、その日の朝早く、南京に入城。当初は平穏であったが、程なく城内は騒擾状態に陥った。
国民革命軍の一部兵士と“民間人”が在外公館や外国人居留地を襲撃、暴行・略奪を繰り返した。事件当時、南京に居住していた日本人は約500人。その家屋は軒並み襲撃を受けた。
▼南京の日本領事館S12年当時
日本領事館に侵入した不逞シナ人集団は館員を襲い、金品を強奪するだけではなく、領事夫人を陵辱するといったショッキングな事件も引き起こした。今も昔も変わらないシナ人の典型的な狼藉である。
外交上の大事件だった。ところが、我が国や標的となった列強による蒋介石追及は甘かった。この事件の背後にも、誕生間もない中共とコミンテルンが控えていたのだ。
ソ連が国民党に送り込んだ政治顧問ボロディンは、コミンテルンの工作員。南京に入城した第6軍・第2軍の政治部主任も共産分子だった。列強の公館襲撃で蒋介石を孤立化させる作戦である。
▼南京事件で暗躍したボロディン
共産革命のアジア輸出…南京事件の構図は、そのまま南京攻略戦をめぐるフィクションにつながる。反日メディアが媚中学者が、この南京事件を一切無視する理由も判りやすい。
1927年に居留外国人が襲撃された事件は、第2次南京事件とも呼ばれる。1913年8月には袁世凱の腹心・張勲による第1次南京事件が発生。日系商店が襲われ、日本人10数人が虐殺されている。
シナ人の暴虐事件が繰り返される南京。だが、ほんの少し時代を遡ると、その地では事件という概念を超える惨事が起きている。
【シナ人による大虐殺との共通点】
「南京の北東の門の前に、爆薬二十トンを爆発させた。爆発の煙が消えたとき、その軍隊は市内になだれ込み、飢えた住民に襲いかかった。王宮と他の宮殿は、火を放たれた」(K・S・カロル著『毛沢東の中国』)
もちろん昭和12年の南京攻略戦に関する記述ではない。ここに登場する軍隊とは、清朝末期の漢族軍人・曽国藩が率いる湘軍だ。想像を絶する凄惨な歴史事実…情景は更に、こう描写されている。
「続く三日間に、十万人以上の人々が殺されたが、投降した反徒はひとりもいなかった。われわれはポンペイを思わせる人影のない街路を前進したが、焼死者の悪臭にたえられなかった」(前掲書)
これが1864年に起きたジェノサイド、本当の南京大屠殺だ。19世紀半ばに始まった「太平天国の乱」の結末である。シナ近代史を彩る著名な異教徒の叛乱だが、残酷なエンディングは余り知られていない。
「五十万と推定された人口のうち、生き残ったのは、たった五百人に過ぎなかった」
カロルの提示する犠牲者数は水増しだろう。正確な数は不明だが、今では「犠牲者20万人」が定説になっている模様だ。この20万人という規模は、示唆に富んでいる。
▼太平天国軍と清軍の長江戦図
また曽国藩の幕僚であった趙烈文は、著書『能静居士日記』の中で、虐殺は1ヵ月間続き、財宝を運び出す車列は延々3ヵ月続いたと記している。加害者側の告白であることが重要だ。
20万人の犠牲者数と3ヵ月という期間。どこかで聞いた覚えがある…20万人とは市ヶ谷で中華民国側が掲げた捏造話の犠牲者数。3ヵ月は、反日勢力が絶叫する昭和12年末からの南京の混乱期間である。
見事に一致するのは、偶然ではない。そして、南京を舞台にした殺戮の嵐は、19世紀から第2次南京事件まで続いた特異な出来事でもない。
【繰り返された南京落城の惨状】
「軍中では食糧が欠乏したので、士卒を放って民間の米穀、財宝、子女を掠奪してまわった」(『資治通鑑・梁記17』)
「数ヶ月の間に人びとが互いに食いあうに至っても、餓死を免れなかった。生き残ったものは百人中、一、二人しかいなかった」(『資治通鑑・梁記17』)
これらは548年の「侯景の乱」に関する記述だ。評論家の黄文雄氏は、南京が六朝の都として栄えた4~6世紀の間に何度も大虐殺が繰り返されたとして、複数の例を挙げて紹介している。
☆王敦の乱…322年(東晋時代)
☆蘇峻祖約の乱…329年(東晋時代)
☆桓玄の乱…402年(東晋時代)
☆王僧弁の南京大屠殺…552年(梁時代)
☆晋王楊広の南京討伐…589年(隋時代)
血塗られた南京の歴史を踏まえて「大虐殺」はこの時代の名物だったと黄文雄氏は説く。同様のアプローチで南京捏造話の嘘を暴いているのが、四川出身の石平氏だ。
▼『中国大虐殺史~なぜ中国人は人殺しが好きなのか』(石平著)
石平氏も数多の史実を挙げ、虐殺は“シナ文化”の一部と言い切る。それは、文革や天安門大屠殺など中共時代になって更に悪化。つい1ヵ月前にもチベットで組織的・計画的な虐殺を行っている。
一方で石平氏は、日本に“虐殺文化”がなかったと指摘する。もし我が国で虐殺が頻発していれば、「根切り」で悪名高い織田信長が、日本史上の特異なキャラクターとして位置づけられることはない。
20世紀に創作された物語を否定するのに、1500年前の史実を持ち出すことは突飛に見えるかも知れない。だが、これが南京捏造話を暴く核心にもなるのだ。
【中共は「動機」を設定し忘れた】
朝日新聞が南京に関する虚偽報道を始めてから既に40年以上が経過した。異様な超長期キャンペーンだが、その中で捏造派が今でも創作できないのが「大虐殺の動機」だ。
犯罪を立証する上で重要なのは物証だが、故意と認定するには動機が欠かせない。捏造派は無関係の写真流用やトリミングなどの悪質な手法で“証拠”を示してきたが、軒並み嘘が暴かれた。
物証もなく、動機も示せない…それが現在の“南京論争”の状況だ。一部の頭の弱い捏造派は「軍命令の為に兵士に動機はない」などと主張するが、命令書など存在せず、自爆に自爆を重ねる始末だ。
中共も“大虐殺”の動機を挙げていない。無関心なのだ。ここで虐殺のシナ史が役に立つ。シナ人にとって、首都決戦で迫る敵軍がジェノサイドを行うことは常識。しかも舞台は歴史的な“虐殺都市”だった。
▼南京城中山門に向かう我が軍S12年
高い城壁に囲まれた南京。そこを包囲したシナ人の軍勢が先ず火を放ち、突入後に略奪・暴行・殺戮を繰り返すことは「通常パターン」だったのである。
最初から国民党も中共も、動機を説明する必要性に気付かなかったのだ。更に中共が「動機」を党認定しなかった為に、我が国の捏造派が独自論を展開することも出来なかった。
▼捏造紀念館を訪れる菅直人02年
それがリメイクの限界だ。ゼロからフィクションを作り上げるのは難しい。昭和12年の南京捏造話は、こまでのシナ人による南京大屠殺、取り分け「太平天国の乱」のラストシーンをネタ元にしているのだ。
慰安婦捏造話は、農村の少女を拉致して売り飛ばすという朝鮮の歴史的暗部を下敷きにしていた。同様に南京捏造話も自民族が抱える物語を色濃く反映している。
▼万人抗もシナ特有の“伝統”(AFP)
南京にある捏造紀念館には、今年の段階で30万人という犠牲者数がクリップされている。この人数が論争の焦点であるが、特に逆上する必要はない。その数は「太平天国の乱」の死者数を明示している。
▼捏造派のシナ忠犬・大江健三郎
殺戮の手口も狼藉の伝統スタイルも、実際はシナ人のものだ。間違っているのは、1937~38年という年代と加害者。パネルや軍服を付け替えれば、そのままシナ虐殺資料館として明日にもオープン可能だ。
〆
最後まで読んで頂き有り難うございます
クリック1つが敵に浴びせる銃弾1発となります
↓

参照:
史実を世界に発信する会HP「茂木弘道事務局長『中国大虐殺史』(石平著)解説』
参考文献:
撃論ムック『情報戦「慰安婦・南京」の真実』~黄文雄論文『中国史は「南京大虐殺」の歴史だ』
『「南京大虐殺」のまぼろし」鈴木明著(WAC出版)
この記事へのコメント
戦争後、中共の空軍を指導したのは日本人ですし、台湾の国民党に協力したのも日本軍人。当時の日本と国民党、共産党は戦争はすれど、今のような虐殺の怨恨とは違う関係です。
日本のTVはもっと真実を掘り下げるべきですね。
まさにご指摘の通り、南京大虐殺といえば太平天国の乱鎮圧の際のこと。さらに南京事件といえば北伐軍の虐殺暴行のことであります。南京事件について、事を曖昧に収めたのはかの「友愛外交」の「先達者」でありメーソナリーであった幣原喜重郎でありました。しかしこの件にかの根本中将がからんでいたことは迂闊にも注意しておりませんでした。このあたり、当時の幣原と蒋介石との裏取引と後の台湾防衛戦に思いをいたし、日シ関係の複雑さに呆れるのであります。
しかし、シナ事変における「南京事件」の捏造は国民党宣伝部によることは東中野教授の研究で明らかになっているのですから、中共を相手にせず国民党筋に働きかけるのがわが国のまっとうな対策と思われるのですが、いかがでありませうか?
今回も深いエントリをありがとうございます。
調査すればするほど、かの土人どもとその男妾がわめき散らす、「皇軍兵士が行ったいわゆる南京事件」は捏造であるということが明らかになりますね。
南京事件については近年になって公的資料が発掘された模様です。捏造派が南京の歴史を掘り下げず、昭和12年末からの3ヵ月に限定して創作した理由がなんとなく判ります。
>おいちゃん
お久しぶりです。当時の蒋介石と我が国の関係はかなり微妙だったのですね。南京捏造話は、後に2・28事件で非道ぶりを発揮した国民党にとっても好都合なのでは、と思ったりします。
正に捏造もシナや朝鮮の固有文化ですね。そして、現代のシナ人にも「動機なき虐殺」のフィクションを違和感なく受け入れる素地があることが厄介に思います。
>現役保険営業マンさま
こんばんは。土人&男妾w最高。人数や規模をめぐる論争は20世紀に解決済みで、石平さんらの文化・歴史的背景に立ち入った解読が、遠回りに見えながらも真相を暴くような感じがします。
蒋介石の北伐軍が日本領事館を襲撃。英・米領事館なども同様で、英と米は自国民の保護のために軍事行動に出たが、日本は幣原喜重郎の対支宥和政策によって現地の日本人を見捨てた。
「20万人ぐらいの血の犠牲はかまわない。中国では百万人といえども小さな数にすぎない」
この言葉が中国の虐殺文化を象徴していますね。
正直怖いです。
しかし逃げることは出来ません。
我々は日本人であり、日本以外で生きていける場所などありません。
とすれば、恐ろしくてもこの敵と全力で戦わねばなりません。
日本に栄えあれ。
>coffeeさま
「寛容と忍耐」を主張した幣原の対支外交は、国交回復後の我が国の柳腰姿勢と重なりますね。今とは180度違い、幣原外交を糾弾した当時のメディアや世論こそ真っ当だったと思います。
>みちお様
鄧小平の発言は、今も変わらない虐殺文化を裏付ける貴重な「証拠」ですね。欧米流の人権感覚では決して理解できない異常性がシナにはあります。
某所からのコピペ
--
某窓際放送局社員の独り言“ウチの局がこんなになってしまった経緯”
(1)1960年代~
テレビ放送が始まってまもなくの頃、放送中のちょっとした言葉づかいの問題
(例えば「朝鮮民主主義人民共和国」を“北朝鮮”と呼んでしまった、など)に対して、
朝鮮総連から会社及び経営幹部の自宅 に対して脅迫に近い抗議行動が繰り返される。
抗議行動に対する「手打ち」として、採用枠に“在日枠”が密かに設けられる。
総連幹部の子弟を中心に入社試験無し(カタチだけの面接)での採用が毎年続く。
在日枠の密約を所轄官庁に対して内密にしてもらうよう局側から総連に「お願い」
をしてさらに弱みを握られるなど、素人のような甘い対応で身動きがとれなくなっていく。
(2)1970年代~
政府を叩きさえすれば世論が喝采する狂った時代。在日社員の「反日番組」を
「権力に対するペンの戦い」 「調査報道」と勘違いした経営幹部が社内で在日を積極登用。
「日本人社員と在日社員に昇進の差別があってはならない」などと理想論を述べたのは良かったが、
結果を見れば昇進差別をしなかったのは甘い日本人幹部だけで、課長、部長と昇進した在日社員は、
帰化した在日二世を理不尽なまでに優遇する逆差別人事を徹底。
異を唱えた日本人社員は徹底的にマークされ、営業や総務など番組制作の第一線から退けられる。
(3)1980年代~90年代
昇進した在日社員が主要な報道番組のプロデューサーや報道局長など、
決定的なポストを占める。某サヨク週刊誌の在日編集長をキャスターに迎えたニュース番組が、
学生時代に学生運動に没頭した団塊の世代の視聴者の支持により高い視聴率を得る。
1989年の参議院議員選挙では「土井社会党」「マドンナブーム」を「消費税反対キャンペーン」で徹底的に援護。
宇野総理のスキャンダルを連日報道し社会党党首を徹底して「おたかさん」と呼ぶなど、あからさまな会党支持。
社会党が地すべり的な勝利。「山が動いた」と感動の報道。
773:本当にあった怖い名無し:2011/10/18(火) 13:56:35.42 ID:eBcVnnln0
(4)1990年代~2000年代
偏向報道、捏造報道、取材情報を特定の勢力に提供するなど、報道機関として存在を
否定されかねない不祥事が続発。ウチと同様に「左翼的」と呼ばれるA新聞、系列のテレビAが、
どちらかといえば「北京の意」を汲んだ報道が多く、その手法が良くも悪くも緻密で計算高いのに対して、
ウチの場合、この時期に発生した数多くのトラブルは、ほとんどすべてが朝鮮半島絡み。
不祥事の内容も、テロを実行した朝鮮カルトの手伝いをした某事件を筆頭に、粗雑で行き当たりばったり。
バブル崩壊以降の景気低迷で、ただでさえ厳しい広告収入が、「サラ金」と「パチンコ」に大きく依存。
まさに、在日朝鮮人の資金で在日朝鮮人が運営しているのがウチの放送局。
この記事、ねずブロでも拡散紹介したいのですが、よろしいでしょうか?
何度でも繰り返し訴え続けて行かなければならないことだと思うので
ありがとうございます。よろしくお願いします。
『資治通鑑』の記述は、撃論ムックからの孫引きで、恐らく、黄文雄さんによる和訳と思われます。4~6世紀の南京の事例は、黄さんの紹介に私が年代を調べて付け加えたものです。
通州事件に関する記述の載った書籍
天皇さまが泣いてござった
著者:調 寛雅
が現在、復刊ドットコムにて復刊投票受付中です。
こちらをご覧になられて興味を持たれた皆様是非協力をお願いします。
ありがとうございます。関連検索ツールで調べてみると、西村さんのツイートへのRTの多さに驚きます。やっぱり、ツイッターの拡散能力は段違いですね。
>復刊させるぞ様
情報ありがとうございます。引用文献としても名前を聞いたことがない「埋もれた出版物」のようですね。これは是非読んでみたい。
陸海軍部内の軋轢等同国民・同民族故に当然には、わかりあえるものでもなく、にんたいがひつようであり、昭和12 7・7盧溝橋~通州虐殺~8・13海軍士官銃撃事件まで、何らかの作為謀略の意図は、明らかだと思われます。