特殊潜航艇シドニー湾の奇蹟…日豪結んだ松尾敬宇と母
昭和17年シドニー湾に出撃した3隻の特殊潜航艇…壮絶な最期を遂げた日本兵は異例の海軍葬で弔われた。英霊の1人・松尾敬宇中佐の母は戦後に豪州を訪ね、巨大な感動をもって迎えられる。
今年2月7日、オーストラリア・シドニー湾を高齢の日本男性が訪れた。和歌山市に住む芦辺五男さん、83歳。小型ボートで湾に出た芦辺さんは花束を海に投げ入れた。
その海には、大東亜戦争中、特殊潜航艇でシドニー湾に出撃した兄・守さんが眠っていた。
▽発見された特殊潜航艇(昨年12月)
昨年12月、豪州政府はシドニー湾の沖5.6キロの海底で発見された船が日本海軍の特殊潜航艇であると発表。伴勝久中尉(愛知)と芦辺守一等兵曹(和歌山)の艇であることが分かった。
シドニー湾に出撃した特殊潜航艇は全3隻。他の2隻は交戦直後に確認されていたが 伴・芦辺艇は唯一行方が分かっていなかった。65年ぶりの奇跡的な“再会”である。
「ようやく念願のシドニーに来ることができました。六十数年ぶりに兄に会うことができ感慨無量です」
慰霊した弟の五男さんは、長い間思い描いてきた夢が実現したと語り、兄が好きだったという地酒を海に注いだ。
伴・芦辺艇は攻撃後に追撃を振り切ったあと行方を絶っていた。なぜ、半世紀以上経っても最後の1隻が見つからないのか、地元でも謎とされてきたが、昨年暮れになってダイバーが発見したという。
▽見つかった伴・芦辺艇(イザ)
遠い異国の地に散華された伴中尉と芦辺一等兵曹のご冥福をここにお祈り申し上げる。
シドニー湾に出撃した特殊潜航艇については、熊本出身の松尾敬宇(まつお・けいう)大尉の壮絶な最期が広く知られ、今に語り継がれている。
【甦る松尾敬宇中佐の肖像】
昭和17年5月31日、豪州シドニー湾に向けて出撃した我が軍の特殊潜航艇は全3隻。その武烈は豪州軍に激しい戦慄と大きな感動をもたらした。
とりわけ松尾敬宇中佐は「軍神」と讃えられて、今日にまで日本人の心を揺るがしている。
昨年、松尾敬宇中佐の生涯を描いたDVDが発売された。『平和への誓約(うけい)』と題されたアニメーション作品で、全2話を収録。その中の1話が「松尾敬宇とその母」だ。
▽『平和への誓約』制作・発売(株)ブルックス
鬼才・三池祟史監督の手による32分の短編アニメで、松尾敬宇中佐と母・まつ枝さんの逸話が丹念に描写されている。哀しく、そして美しいエピソードの連続が胸を打つ。
松尾敬宇は大正6年、熊本県山鹿市に生を受ける。古い家柄だったことが中佐の後の人生にも大きな影響を与えた。
昭和10年、江田島の海軍兵学校に合格。第66期生である。13年に卒業、艦隊勤務を経て、敬宇は特殊潜航艇搭乗員となった。真珠湾攻撃には作戦参謀として参加。この時、5隻の特殊潜航艇の出撃を見守っている。
▽松尾敬宇中佐(日本会議熊本HPより)
翌17年春、わが海軍は特殊潜航艇によるシドニーへの第二次特別攻撃計画を策定。それを受けて松尾敬宇中尉(当時)は、攻撃部隊に志願する。
3月、熊本から両親・兄妹が広島の呉を訪れ、松尾敬宇は直々に出陣の祝いを受ける。それが別れの宴となることを敬宇は感じ取っていた。
特殊潜航艇は後の「回天」とは異なり、母艦への帰還を前提としている。しかし、敬宇が真珠湾で見送った5隻の特殊潜航艇は1隻も戻って来ることはなかった…
その夜、敬宇は父より、家に代々受け継がれるひと振りの刀を賜る。それは「菊池千本槍」と呼ばれる刀で、 青竹の先に小刀を縛り付けたものだった。松尾家は鎌倉時代の豪族・菊池一族を祖とし、その刀を受け継いでいたのだった。
▽DVD『平和への誓約』より
その伝家の宝刀・菊池千本槍は、お国の為に大義を貫く「菊池魂」のシンボルであるという。
家族との別れの夜、敬宇は母・まつ枝に添い寝して眠りに就く。両親も息子が重要な作戦に赴くことを充分に理解していた…
【特殊潜航艇シドニー湾に出撃す】
昭和17年5月31日深夜、シドニー湾に近づいた母艦から3隻の特殊潜航艇が出撃する。
▽第二次特別攻撃部隊の陣容(豪連邦歴史記念館より)前列右3番目が松尾大尉
松尾敬宇大尉(当時)は、出陣直前、身体を拭き清め、「菊池千本槍」を片手に艦内神社に参拝。真珠湾に散った仲間の写真を拝んで攻撃の成功を祈願した。
特殊潜航艇は防潜網を突破、シドニー湾の奥深くに入って攻撃を開始した。湾内にあった豪州軍の艦艇は突然の攻撃で大混乱に陥る。
ところが松尾大尉・都竹兵曹の特殊潜航艇に機械トラブルが発生。魚雷の発射が不可能となった。そこで松尾敬宇は決意する。
「体当たりで本懐を遂げる」
特殊潜航艇は浮上して敵艦に接近、開けたハッチからは松尾大尉の顔が見えた…
▽DVD『平和への誓約』より
その時の模様を三島由紀夫は『行動学入門』の中で、こう描写している。
オーストラリアで特殊潜航艇が敵艦に衝突寸前に浮上し、敵の一斉射撃を浴びようとしたときに、月の明るい夜のことであったが、ハッチの扉をあけて日本刀を持った将校がそこからあらわれ、日本刀を振りかざしたまま身に数弾を浴びて戦死したという話しが語り伝えられている。 『行動学入門』(文春文庫)50頁
実際の松尾敬宇大尉の最期は少し違った…
松尾艇は波状攻撃を浴びて破損、浸水し、海中に消える。そして、都竹兵曹と共に自決。
享年24。
【海軍葬と日章旗に包まれた棺】
特殊潜航艇の攻撃に豪州海軍の兵士・将校らは強い衝撃を受けた。予想もしなかった大胆不敵な作戦行動に心胆寒からしめると同時に、日本海軍兵の勇敢さに深い感銘を覚えたのだ。
まもなく松尾艇ともう1隻の中馬艇が引き揚げられ、4人の亡がらが収容された。
▽松尾艇(『世界から見た大東亜戦争』より)
シドニー地区海軍司令官のムーアヘッド・グールド少将は、一部であがった反対の声をものともせず、同年6月9日、散華した4人の勇気に敬意を表し、海軍葬の礼をもって弔う。
葬儀は丁重に行われ、4つの棺は美しい日章旗に包まれていた。
▽写真:『世界から見た大東亜戦争』より
そして交換船によって翌月、日本に返還され、松尾敬宇中佐(二階級特進)の遺骨は、やがて母・まつ枝さんの元に届けられた…
敵味方を越えて武勇を讃える軍人精神の現れだった。最高礼で敵兵士を弔ったオーストラリア海軍の決然とした振る舞いは、我が国でも感動を広げたという。
なぜ、豪州軍は異例の海軍葬に踏み切ったのか?
その4ヵ月前、殆ど知られていないエピソードがあった…
豪州軍と我が軍が戦火を交えたのは、シドニー湾が最初ではなかった。
昭和17年1月、わが陸軍はマレー半島南部の山岳地ゲマスで数日間に渡る激戦を繰り広げ、双方に多くの戦死者を出した。敗走の連続だった英軍とは様子が違った…それがオーストラリア軍だったのだ。
わが軍は戦闘の後、敵軍の武烈を賞賛し、異例の行動を取った。シンガポールの歴史教科書が、その時のもようを詳しく伝えている。
「オーストラリア兵達の勇気は、日本兵、とくに彼らの指揮者によって称賛された。敬意のあかしとして、彼らは、ジェマールアンのはずれの丘の斜面の、オーストラリア兵200人の大規模な墓の上に、1本の巨大な木製の十字架をたてることを命じた。十字架には『私たちの勇敢な敵、オーストラリア兵士のために』という言葉が書かれていた」
『現代シンガポールの社会経済史』中学2年用
▽同教科書(『世界から見た大東亜戦争』より)
シドニー湾での手厚い葬儀は、その返礼だったのかも知れない。
そして、松尾敬宇中佐の物語はこれだけで終わらない。
【感動を巻き起こした母まつ枝の言葉】
終戦から20年が経った昭和40年7月、松尾敬宇中佐の母・まつ枝さんの元にオーストラリア連邦戦争記念館館長のマッグレース夫妻が訪ねてくる。豪州国内で絶えることのない称賛の声を届けに来たのであった。
マッグレース館長は、まつ枝さんにこう語りかけた。
「オーストラリアの全国民が、ご子息の勇気を尊敬しています」
そして、まつ枝さんに豪州訪問を呼びかける。
昭和43年4月、まつ枝さんは豪州の土を踏む。その時、83歳。
▽松尾まつ枝さん(日本会議熊本HPより)
シドニー湾を眺望する場所で、まつ枝さんはこう囁く。
「母は心からあなたを褒めてあげます。よくやってくれました」
連邦戦争記念館では、展示されている特殊潜航艇を撫で、菊池神社のお神酒を添えた。歌人でもあったまつ枝さんは、そこで一首詠む。
愛艇を撫でつつ想ふ呉の宿
名残りおしみしかの夜のこと
10日間の滞在中、現地の新聞は、まつ枝さんの写真と歌を競って伝え、「日本の母」と親しみを込めて呼んだという。
まつ枝さんは、昭和55年に95歳で世を去る。葬儀には松尾敬宇中佐の武烈を讃える方々、まつ枝さんの凛とした振る舞いに姿に感動した方々など400人が全国各地から参列。オーストラリア政府から弔電も届けられた。
それから20数年が経った。
松尾敬宇中佐がアニメで甦り、新たな光が当てられたのとほぼ時を同じくして、60年以上も消息が分からなかった最後の1隻、伴・芦辺艇が発見された。それは偶然だったのか…
どこか奇蹟の香りがする。残された2人の愛艇が引き揚げられ、65年前と同じように日章旗に包まれて弔われることを切に願う。
昭和17年、海軍葬で礼を尽くしたグールド少将は、葬儀のあとラジオで演説し、毅然として豪州国民に訴えた。その弔辞の一部が今も伝わっている。
「このような鋼鉄の棺桶で出撃するためには、最高度の勇気が必要であるに違いない。これらの人たちは最高の愛国者であった。我々のうちの幾人が、これらの人たちが払った犠牲の千分の一のそれを払う覚悟をしているだろうか」
『世界から見た大東亜戦争』180頁
〆
最後まで読んで頂き有り難うございます♪
クリック1つが敵に浴びせる銃弾1発 となります
↓

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【side story】
紹介した三池祟史監督作品『平和への誓約(うけい)』に関する詳しいデータは見つかりませんでしたが、発売は昨年と思われます。
市販の経路は少なく、首都圏では靖国神社遊就館で入手可能。値段は1,800円で、1階ショップの書籍コーナーに置かれています。
『現代シンガポールの社会経済史』については以下の『世界から見た大東亜戦争』内からの孫引き。
参考文献:
名越二荒之助編『世界から見た大東亜戦争』(展転社)
三島由紀夫著『行動学入門』(文春文庫)
参考情報:
『特殊潜航艇/松尾敬宇』http://www.asahi-net.or.jp/~UN3K-MN/toku-matuo.htm(~を半角に)
『シドニー・ハーバーに散った特殊潜航艇、勇士たちの英霊に捧ぐ』
『松尾敬宇大尉軍服』
『第二次大戦と日豪 恩讐を越えて蘇る戦後の友好・協力関係pdf』
今年2月7日、オーストラリア・シドニー湾を高齢の日本男性が訪れた。和歌山市に住む芦辺五男さん、83歳。小型ボートで湾に出た芦辺さんは花束を海に投げ入れた。
その海には、大東亜戦争中、特殊潜航艇でシドニー湾に出撃した兄・守さんが眠っていた。
▽発見された特殊潜航艇(昨年12月)
昨年12月、豪州政府はシドニー湾の沖5.6キロの海底で発見された船が日本海軍の特殊潜航艇であると発表。伴勝久中尉(愛知)と芦辺守一等兵曹(和歌山)の艇であることが分かった。
シドニー湾に出撃した特殊潜航艇は全3隻。他の2隻は交戦直後に確認されていたが 伴・芦辺艇は唯一行方が分かっていなかった。65年ぶりの奇跡的な“再会”である。
「ようやく念願のシドニーに来ることができました。六十数年ぶりに兄に会うことができ感慨無量です」
慰霊した弟の五男さんは、長い間思い描いてきた夢が実現したと語り、兄が好きだったという地酒を海に注いだ。
伴・芦辺艇は攻撃後に追撃を振り切ったあと行方を絶っていた。なぜ、半世紀以上経っても最後の1隻が見つからないのか、地元でも謎とされてきたが、昨年暮れになってダイバーが発見したという。
▽見つかった伴・芦辺艇(イザ)
遠い異国の地に散華された伴中尉と芦辺一等兵曹のご冥福をここにお祈り申し上げる。
シドニー湾に出撃した特殊潜航艇については、熊本出身の松尾敬宇(まつお・けいう)大尉の壮絶な最期が広く知られ、今に語り継がれている。
【甦る松尾敬宇中佐の肖像】
昭和17年5月31日、豪州シドニー湾に向けて出撃した我が軍の特殊潜航艇は全3隻。その武烈は豪州軍に激しい戦慄と大きな感動をもたらした。
とりわけ松尾敬宇中佐は「軍神」と讃えられて、今日にまで日本人の心を揺るがしている。
昨年、松尾敬宇中佐の生涯を描いたDVDが発売された。『平和への誓約(うけい)』と題されたアニメーション作品で、全2話を収録。その中の1話が「松尾敬宇とその母」だ。
▽『平和への誓約』制作・発売(株)ブルックス
鬼才・三池祟史監督の手による32分の短編アニメで、松尾敬宇中佐と母・まつ枝さんの逸話が丹念に描写されている。哀しく、そして美しいエピソードの連続が胸を打つ。
松尾敬宇は大正6年、熊本県山鹿市に生を受ける。古い家柄だったことが中佐の後の人生にも大きな影響を与えた。
昭和10年、江田島の海軍兵学校に合格。第66期生である。13年に卒業、艦隊勤務を経て、敬宇は特殊潜航艇搭乗員となった。真珠湾攻撃には作戦参謀として参加。この時、5隻の特殊潜航艇の出撃を見守っている。
▽松尾敬宇中佐(日本会議熊本HPより)
翌17年春、わが海軍は特殊潜航艇によるシドニーへの第二次特別攻撃計画を策定。それを受けて松尾敬宇中尉(当時)は、攻撃部隊に志願する。
3月、熊本から両親・兄妹が広島の呉を訪れ、松尾敬宇は直々に出陣の祝いを受ける。それが別れの宴となることを敬宇は感じ取っていた。
特殊潜航艇は後の「回天」とは異なり、母艦への帰還を前提としている。しかし、敬宇が真珠湾で見送った5隻の特殊潜航艇は1隻も戻って来ることはなかった…
その夜、敬宇は父より、家に代々受け継がれるひと振りの刀を賜る。それは「菊池千本槍」と呼ばれる刀で、 青竹の先に小刀を縛り付けたものだった。松尾家は鎌倉時代の豪族・菊池一族を祖とし、その刀を受け継いでいたのだった。
▽DVD『平和への誓約』より
その伝家の宝刀・菊池千本槍は、お国の為に大義を貫く「菊池魂」のシンボルであるという。
家族との別れの夜、敬宇は母・まつ枝に添い寝して眠りに就く。両親も息子が重要な作戦に赴くことを充分に理解していた…
【特殊潜航艇シドニー湾に出撃す】
昭和17年5月31日深夜、シドニー湾に近づいた母艦から3隻の特殊潜航艇が出撃する。
▽第二次特別攻撃部隊の陣容(豪連邦歴史記念館より)前列右3番目が松尾大尉
松尾敬宇大尉(当時)は、出陣直前、身体を拭き清め、「菊池千本槍」を片手に艦内神社に参拝。真珠湾に散った仲間の写真を拝んで攻撃の成功を祈願した。
特殊潜航艇は防潜網を突破、シドニー湾の奥深くに入って攻撃を開始した。湾内にあった豪州軍の艦艇は突然の攻撃で大混乱に陥る。
ところが松尾大尉・都竹兵曹の特殊潜航艇に機械トラブルが発生。魚雷の発射が不可能となった。そこで松尾敬宇は決意する。
「体当たりで本懐を遂げる」
特殊潜航艇は浮上して敵艦に接近、開けたハッチからは松尾大尉の顔が見えた…
▽DVD『平和への誓約』より
その時の模様を三島由紀夫は『行動学入門』の中で、こう描写している。
オーストラリアで特殊潜航艇が敵艦に衝突寸前に浮上し、敵の一斉射撃を浴びようとしたときに、月の明るい夜のことであったが、ハッチの扉をあけて日本刀を持った将校がそこからあらわれ、日本刀を振りかざしたまま身に数弾を浴びて戦死したという話しが語り伝えられている。 『行動学入門』(文春文庫)50頁
実際の松尾敬宇大尉の最期は少し違った…
松尾艇は波状攻撃を浴びて破損、浸水し、海中に消える。そして、都竹兵曹と共に自決。
享年24。
【海軍葬と日章旗に包まれた棺】
特殊潜航艇の攻撃に豪州海軍の兵士・将校らは強い衝撃を受けた。予想もしなかった大胆不敵な作戦行動に心胆寒からしめると同時に、日本海軍兵の勇敢さに深い感銘を覚えたのだ。
まもなく松尾艇ともう1隻の中馬艇が引き揚げられ、4人の亡がらが収容された。
▽松尾艇(『世界から見た大東亜戦争』より)
シドニー地区海軍司令官のムーアヘッド・グールド少将は、一部であがった反対の声をものともせず、同年6月9日、散華した4人の勇気に敬意を表し、海軍葬の礼をもって弔う。
葬儀は丁重に行われ、4つの棺は美しい日章旗に包まれていた。
▽写真:『世界から見た大東亜戦争』より
そして交換船によって翌月、日本に返還され、松尾敬宇中佐(二階級特進)の遺骨は、やがて母・まつ枝さんの元に届けられた…
敵味方を越えて武勇を讃える軍人精神の現れだった。最高礼で敵兵士を弔ったオーストラリア海軍の決然とした振る舞いは、我が国でも感動を広げたという。
なぜ、豪州軍は異例の海軍葬に踏み切ったのか?
その4ヵ月前、殆ど知られていないエピソードがあった…
豪州軍と我が軍が戦火を交えたのは、シドニー湾が最初ではなかった。
昭和17年1月、わが陸軍はマレー半島南部の山岳地ゲマスで数日間に渡る激戦を繰り広げ、双方に多くの戦死者を出した。敗走の連続だった英軍とは様子が違った…それがオーストラリア軍だったのだ。
わが軍は戦闘の後、敵軍の武烈を賞賛し、異例の行動を取った。シンガポールの歴史教科書が、その時のもようを詳しく伝えている。
「オーストラリア兵達の勇気は、日本兵、とくに彼らの指揮者によって称賛された。敬意のあかしとして、彼らは、ジェマールアンのはずれの丘の斜面の、オーストラリア兵200人の大規模な墓の上に、1本の巨大な木製の十字架をたてることを命じた。十字架には『私たちの勇敢な敵、オーストラリア兵士のために』という言葉が書かれていた」
『現代シンガポールの社会経済史』中学2年用
▽同教科書(『世界から見た大東亜戦争』より)
シドニー湾での手厚い葬儀は、その返礼だったのかも知れない。
そして、松尾敬宇中佐の物語はこれだけで終わらない。
【感動を巻き起こした母まつ枝の言葉】
終戦から20年が経った昭和40年7月、松尾敬宇中佐の母・まつ枝さんの元にオーストラリア連邦戦争記念館館長のマッグレース夫妻が訪ねてくる。豪州国内で絶えることのない称賛の声を届けに来たのであった。
マッグレース館長は、まつ枝さんにこう語りかけた。
「オーストラリアの全国民が、ご子息の勇気を尊敬しています」
そして、まつ枝さんに豪州訪問を呼びかける。
昭和43年4月、まつ枝さんは豪州の土を踏む。その時、83歳。
▽松尾まつ枝さん(日本会議熊本HPより)
シドニー湾を眺望する場所で、まつ枝さんはこう囁く。
「母は心からあなたを褒めてあげます。よくやってくれました」
連邦戦争記念館では、展示されている特殊潜航艇を撫で、菊池神社のお神酒を添えた。歌人でもあったまつ枝さんは、そこで一首詠む。
愛艇を撫でつつ想ふ呉の宿
名残りおしみしかの夜のこと
10日間の滞在中、現地の新聞は、まつ枝さんの写真と歌を競って伝え、「日本の母」と親しみを込めて呼んだという。
まつ枝さんは、昭和55年に95歳で世を去る。葬儀には松尾敬宇中佐の武烈を讃える方々、まつ枝さんの凛とした振る舞いに姿に感動した方々など400人が全国各地から参列。オーストラリア政府から弔電も届けられた。
それから20数年が経った。
松尾敬宇中佐がアニメで甦り、新たな光が当てられたのとほぼ時を同じくして、60年以上も消息が分からなかった最後の1隻、伴・芦辺艇が発見された。それは偶然だったのか…
どこか奇蹟の香りがする。残された2人の愛艇が引き揚げられ、65年前と同じように日章旗に包まれて弔われることを切に願う。
昭和17年、海軍葬で礼を尽くしたグールド少将は、葬儀のあとラジオで演説し、毅然として豪州国民に訴えた。その弔辞の一部が今も伝わっている。
「このような鋼鉄の棺桶で出撃するためには、最高度の勇気が必要であるに違いない。これらの人たちは最高の愛国者であった。我々のうちの幾人が、これらの人たちが払った犠牲の千分の一のそれを払う覚悟をしているだろうか」
『世界から見た大東亜戦争』180頁
〆
最後まで読んで頂き有り難うございます♪
クリック1つが敵に浴びせる銃弾1発 となります
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【side story】
紹介した三池祟史監督作品『平和への誓約(うけい)』に関する詳しいデータは見つかりませんでしたが、発売は昨年と思われます。
市販の経路は少なく、首都圏では靖国神社遊就館で入手可能。値段は1,800円で、1階ショップの書籍コーナーに置かれています。
『現代シンガポールの社会経済史』については以下の『世界から見た大東亜戦争』内からの孫引き。
参考文献:
名越二荒之助編『世界から見た大東亜戦争』(展転社)
三島由紀夫著『行動学入門』(文春文庫)
参考情報:
『特殊潜航艇/松尾敬宇』http://www.asahi-net.or.jp/~UN3K-MN/toku-matuo.htm(~を半角に)
『シドニー・ハーバーに散った特殊潜航艇、勇士たちの英霊に捧ぐ』
『松尾敬宇大尉軍服』
『第二次大戦と日豪 恩讐を越えて蘇る戦後の友好・協力関係pdf』
この記事へのコメント
…なるほど、そのようなことがあったのですか。シドニー湾攻撃を行ったことは知っておりましたが、記事にあるエピソードは全く知りませんでした。
>残された2人の愛艇が引き揚げられ、65年前と同じように日章旗に包まれて弔われることを切に願う。
>>同感です。
自然と頭が下がり眼が霞んできました。
日本の周辺に跋扈する卑しい民族とはデキが違う。戦争とは斯くありたいものだと思わずにはいられません。
伴・芦辺艇の引き揚げ後は、是非大々的なセレモニーを行いたいものです。ちなみに遺族の湾訪問はNHKの支局しか報じていないようです。
>古田さま
海軍葬については日本で当時報道されたとも一部書かれていますが詳しく判りません。真珠湾も個人の伝記に改めて注目したいですね。
>駱駝さま
お母様立派ですね。力強い日本の母です。DVDでは複数の歌が紹介されていて、これがまた泣けて来るんです。
>ごんべえ様
久々の大東亜戦争秘話でしたが、もちろん日豪安保宣言を睨んでの側面支援のつもりで…特亜とはやはり先進性に大きな違いがあったと言わざるを得ませんね。
>キラーT細胞さま
『世界から見た大東亜戦争』は逸話満載で勉強になる本ですね。仰るように、今の我が国の姿を英霊に見せたくありません。声に応えるには変えていかなければ。
素直になれない。
漂流中の日本兵をオーストラリア兵が射殺する映像がテレビで流されたのはいつだったか。
改装前の靖国神社遊就館で、この慰霊式典の
音声を聞くことが出来るブースが会った。
でも、この虐殺映像が引っ掛かって、オーストラリアには素直に感謝できなかった。