マレーの虎ハリマオ・谷豊の壮絶生涯(後編)
妹をシナ人に惨殺された谷豊はマレー北部で大盗賊の頭目になっていた。開戦前、マレー人の協力を求める帝国陸軍は谷豊に注目し、神本利男が説得に成功。軍の密命を帯びた谷豊の大活躍が始まった。
注:以下のエントリの後編にあたります
マレーの虎ハリマオ・谷豊の壮絶生涯(前編)また
「その名は『F機関』…大東亜戦争の英雄・藤原岩市」の外伝にも相当
後編:
【敵要塞とマタドール計画】
これまでの戦史では、軍の秘密指令を受けた谷豊の一党は、失敗続きで、帝国陸軍のハリマオ工作は不発に終わったとされていた。
しかし『神本利男とマレーのハリマオ』で初めて明かされた谷豊の行動は、まったく違うものだ。
谷豊の配下には盗賊くずれのマレー人しかいなかったと見られていた。
ハリマオ一党は数百人規模で、「配下3,000人の大盗賊」は噂に過ぎなかったが、 実際はメンバー各自が様々な特殊技術を持つ集団であった。例えばザカリアという男は、火薬のプロフェッショナルで、爆破工作で力を存分に発揮していたという。
昭和16年秋…
戦争を予感していたのは英軍も同じだった。
開戦となった場合、イギリスが誇る東洋の最重要基地はシンガポールにあり、そこを目標にすることは明らかだった。
日本軍はタイ国境を越えてマレー半島を縦断して進撃すると想定。マレー北部に要塞を建設し、陸軍の動きを止めることが急務でもあった。
そこで英軍はタイ国境から30キロ南の小さな集落ジットラに防禦陣地を建設していた。これがマレー戦記には必ず登場する「ジットラ・ライン」である。
その建設現場に現地人としてハリマオ一党が浸透していた…
マレー人労働者にサボタージュを呼びかけ、セメントなどの重要資材を湿地に投げ捨てる…また、トーチカの場所や地形などを調査し、詳細な地図を陸軍に送ったという。
「いかなる攻撃でも3ヵ月は持ちこたえる」と英軍は豪語していたが、いざ戦端が開かれると、わが帝国陸軍は大激戦の末、僅か2日間でジットラ・ラインを突破している。
3ヵ月の予測がたった2日だ…
谷豊の建設遅延工作が実った結果でもあった。
長期の激戦が避けられたことで、何千人の陸軍兵士の貴重な命が救われたことか…それは英軍兵にとっても同じだ。
また、英軍は開戦に先立ってタイ南部に上陸する日本軍の兵団を水際で駆逐する「マタドール計画」を進めていた。
英軍の精鋭部隊が密かに国境を越え、迎え撃つ作戦だった。その極秘作戦の情報を掴んだのもハリマオの配下だった。昭和16年7月に察知し、9月には作戦の概要が明かなっている。結局、「マタドール計画」は不発に終わる。
【『F機関』藤原参謀との初対面】
大東亜戦争開戦2ヵ月前、バンコクにひとりの情報将校が赴任する。のちに「F機関」を率いる藤原岩市参謀(開戦時少佐)だ。
「ハリマオ工作」の名付け親は藤原参謀だった。藤原参謀は、ハリマオ一党の活動を高く評価し、特に谷豊という日本人に興味を抱いた。開戦直前には、タイ南部で直接会う手筈を整えていたが、尾行の危険性があったために止むなく断念している。
2人が対面を果たすのは、開戦のちょうど1ヵ月後だった。場所はマレー北部の小さな村。ハリマオ一党が新たに英軍陣地の後背に向かう直前の、偶然の出会いだった。
その時の模様を藤原参謀は著書『F機関』の中で、こう書き記している。
「なに谷君が待っているのか。おれも会いたかった。どこだ谷君は」(略)私は重い使命を背負わせ、大きな期待をかけている私の部下の谷君に、今日の今までついに会う機会がなかったのである」
「数百名の子分を擁して荒し廻ったというマレイのハリマオは、私の想像とは全く反対の色白な柔和な小柄の青年だった。(略)
私は谷君の挨拶を待つ間ももどかしく、『谷君。藤原だよ。よいところで会ったなあ。御苦労。御苦労。ほんとうに苦労だった』と、彼の肩に手をかけて呼びかけた。
谷君は深く腰を折り、敬けんなお辞儀をして容易に頭を上げないのであった」
(『F機関』176頁)
余りに遜った態度に藤原参謀は驚き、そして、マレー人になりきった過去の境涯をしのんで、いじらしく感じたという。
藤原参謀がダム破壊工作の成功を称えると、谷豊はこう答えた。
「いいえ。大したことはありません。ペクラ河の橋梁の爆破装置の撤去は一日違いで手遅れとなって相済みませんでした。それから山づたいに英軍の背後に出て参りましたが、日本軍の進撃が余りに早いので遅れがちになって思う存分働けなかったのが残念です。
この付近では英軍の電線を切ったり、ゴム林の中に潜んでいるマレイ人に宣伝したり致しましたが、日本軍のためにどれだけお役に立てたことでしょうか」
これに対し藤原参謀は更に労いの言葉をかける。
「『君のこのたびの働きは、戦場に闘っている将校や、兵にも優る功績なんだよ』というと、谷君は私の顔を見上げて眼に涙を浮かべながら、
『有り難うございます。豊は一生懸命働きます。私の命は死んでも惜しくない命です。機関長の部下となり、立派な日本男児になって死ねるなら、これ以上の本望はございません』としみじみ述懐した」
(前掲書177頁)
2人が初対面した時、谷豊はすでにマラリアに冒されていた。
【最終目的地シンガポールへ】
わが日本軍が快進撃を続ける一方で、谷豊の病状は悪化していた。
初めての対面から約1週間後、藤原参謀の元に「谷豊がマラリアを再発し重篤だ」という報せが届く。そして、谷豊と行動を共にしている神本利男に対し、早急にジョホールバルの陸軍病院に移すよう連絡した。
「一人として大切でない部下はいない。しかし、分けてハリマオは、同君の数奇な過去の運命とこのたびの悲壮な御奉公とを思うと何としても病気で殺したくなかった。
敵弾に倒れるなら私もあきらめきれるけれども、病死させたのではあきらめ切れない。私は無理なことを神本氏に命じた。『絶対に病死させるな』と」
(同247頁)
時は1月14日。
シンガポール陥落まであと1ヵ月…
ジョホールバルはマレーシアの最南端の大都市で、海のすぐ向こうがシンガポール島だ。
神本利男は担架に谷豊を乗せて運び、陸軍病院に運び込んだ。その直前、神本は谷豊を抱き起こしてシンガポールの町の灯りを見せた。
「おれのテリトリーはマレー半島だから、シンガポールは関係なしか…」
そう谷豊は呟いたという。
ハリマオ一党の最終目的は、日本軍をシンガポールに進めることだった。谷豊は自らに課せられた使命を無事、終えようとしていた。
【ハリマオ、白い布とともに消える…】
「私は生花を携えて病院にハリマオを見舞った」
藤原参謀と谷豊の再会は、シンガポールの兵站病院の一室だった。陥落から数日のことである。
その前に、藤原参謀は軍政監部の馬奈木少将と直談判し、谷豊を軍政監部の一員として起用することを要請していた。
「見舞いと慰労の言葉を述べると、ハリマオは『充分な働きが出来ないうちに、こんな病気になってしまって申し訳がありません』と謙きょにわびた。
私は『いやいや余り無理をし過ぎたからだ。お母さんのお手紙を読んでもらったか。よかったね』というと、ハリマオはうなづいて胸一杯の感激を示した。両眼から玉のような涙があふれるようにほほを伝わってながれた。
私は更に『谷君、今日軍政監部の馬奈木少将に君のことを話して、病気が治ったら、軍政監部の官吏に起用してもらうことに話が決まったぞ』と伝えると、ハリマオはきっと私の視線を見つめつつ『私が!谷が!日本の官吏さんになれますんですか。官吏さんに!』と叫ぶようにいった。ハリマオの余りの喜びに、むしろ私が驚き入った」
(前掲書269頁)
官吏とは今の国家公務員に相当する。盗賊として日本人からも白眼視されていた谷豊にとって、その処遇は夢にさえ見ることのないものだった。
そして、この日が2人の終世の別れとなった。
昭和17年3月17日。
ハリマオとして名を馳せた谷豊は力尽きた。
享年30。
臨終を見守っていた配下のマレー人が日本軍に求めたのは白い布2枚だけだったという。それはイスラム葬で遺体を包むのに必要なものであった。
谷豊の棺は部下たちに担がれ病院を後にし、シンガポールのイスラム墓地にひっそりと埋葬された…
【英霊となったハリマオ】
その頃、藤原参謀はINA(インド国民軍)幹部をともなって東京で重要な会談を開いていた。
そこで訃報を受け取ったのだ…
「北部マライの虎として泣く子も恐れさせた彼は、マライの戦雲が急を告げるころ、翻然発心して純誠な愛国の志士に返った。彼は私の厳命を遵守して、彼は勿論、その部下も私腹を肥やす一物の略奪も、現住民に対する一回の暴行も犯すことがなかった…」
藤原参謀は、直ちに谷豊を正式の軍属として陸軍省に登記するよう求め、諒承を得る。それによって谷豊は英霊として靖国神社に祭られることが決まったという。
盗賊の頭目となった頃、谷豊は勘当同然となり、日本に戻ったままの家族とは音信不通になっていた。
■家族写真(左が豊)
肉親を捨て、祖国を捨て去っていたのだ。だが戦乱によって、谷豊はごく短い間にすべてを取り戻し、そして英霊となった。
開戦の1ヵ月前、谷豊は九州の母親宛に一通の手紙を書いている。その文面は、たどたどしいカタカナで綴られていたという。
「お母さん。
豊の長い間の不幸をお許し下さい。豊は毎日遠い祖国のお母さんをしのんで御安否を心配しております。
お母さん!
日本と英国の間は、近いうちに戦争が始まるかも知れないほどに緊張しております。豊は日本軍参謀本部田村大佐や藤原少佐の命令を受けて、大事な使命を帯びて日本のために働くこととなりました。
お母さん喜んで下さい。
豊は真の日本男児として更生し、祖国のために一身を捧げるときが参りました。
豊は近いうちに単身英軍の中に入って行ってマレイ人を味方に思う存分働きます。生きて再びお目にかかる機会も、またお手紙を差し上げる機会もないと思います。
お母さん!
豊が死ぬ前にたった一言!いままでの親不幸を許す、お国のためにしっかり働け、とお励まし下さい。
お母さん!
どうか豊のこの願いを聞き届けて下さい。そうしてお母さん!長く長くお達者にお暮らし下さい」
〆
最後まで読んで頂き有り難うございます♪
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【side story】
谷豊の肖像は『F機関』より接写。また貴重な家族写真は『マレーの虎 ハリマオ伝説』単行本(新潮社)の裏表紙から接写しました。弟・谷繁樹さんからの提供ということです。
シンガポールの病院から遺体が運ばれた後、日本軍関係者で消息を知る者はなく、軍によるハリマオ銃殺説も流れていたようです。
これを粉砕したのが『神本利男とマレーのハリマオ』を上梓された土生良樹さんでした。土生さんはマレーシア北西部に暮らすアブドラ・ラーマン長老を訪ねて昔話を聞き取りました。
■ラーマン長老(左)と土生良樹さん
このラーマン長老こそ谷豊の亡きがらをイスラム墓地に運んだ一人だったのです。ラーマン長老は昭和16年2月から神本利男さんの通訳を務め、行動をともにした人物でハリマオ工作の全体像を知り得る立場にいました。長老はその時、19歳の少年だったそうです。
谷豊の享年については諸説ありますが、土生説を採用しました。
ハリマオ関連書籍としては4年前に大修館書店から『ハリマオ マレーの虎、六十年後の真実』が出ていますが未読です。恐らくラーマン長老の証言を超えるものはもう出ないでしょう。
歴史研究家の岡崎渓子さんによれば、近年マレーシアのテレビ局がハリマオ=谷豊の特集を放映。その番組の最後はこんな言葉で結ばれていたそうです。
「イギリス軍も日本軍も武器ではマレーシアの心を捉えられなかった。心を捉えたのは、 マレーを愛した一人の日本人だった」
注:以下のエントリの後編にあたります
マレーの虎ハリマオ・谷豊の壮絶生涯(前編)また
「その名は『F機関』…大東亜戦争の英雄・藤原岩市」の外伝にも相当
後編:
【敵要塞とマタドール計画】
これまでの戦史では、軍の秘密指令を受けた谷豊の一党は、失敗続きで、帝国陸軍のハリマオ工作は不発に終わったとされていた。
しかし『神本利男とマレーのハリマオ』で初めて明かされた谷豊の行動は、まったく違うものだ。
谷豊の配下には盗賊くずれのマレー人しかいなかったと見られていた。
ハリマオ一党は数百人規模で、「配下3,000人の大盗賊」は噂に過ぎなかったが、 実際はメンバー各自が様々な特殊技術を持つ集団であった。例えばザカリアという男は、火薬のプロフェッショナルで、爆破工作で力を存分に発揮していたという。
昭和16年秋…
戦争を予感していたのは英軍も同じだった。
開戦となった場合、イギリスが誇る東洋の最重要基地はシンガポールにあり、そこを目標にすることは明らかだった。
日本軍はタイ国境を越えてマレー半島を縦断して進撃すると想定。マレー北部に要塞を建設し、陸軍の動きを止めることが急務でもあった。
そこで英軍はタイ国境から30キロ南の小さな集落ジットラに防禦陣地を建設していた。これがマレー戦記には必ず登場する「ジットラ・ライン」である。
その建設現場に現地人としてハリマオ一党が浸透していた…
マレー人労働者にサボタージュを呼びかけ、セメントなどの重要資材を湿地に投げ捨てる…また、トーチカの場所や地形などを調査し、詳細な地図を陸軍に送ったという。
「いかなる攻撃でも3ヵ月は持ちこたえる」と英軍は豪語していたが、いざ戦端が開かれると、わが帝国陸軍は大激戦の末、僅か2日間でジットラ・ラインを突破している。
3ヵ月の予測がたった2日だ…
谷豊の建設遅延工作が実った結果でもあった。
長期の激戦が避けられたことで、何千人の陸軍兵士の貴重な命が救われたことか…それは英軍兵にとっても同じだ。
また、英軍は開戦に先立ってタイ南部に上陸する日本軍の兵団を水際で駆逐する「マタドール計画」を進めていた。
英軍の精鋭部隊が密かに国境を越え、迎え撃つ作戦だった。その極秘作戦の情報を掴んだのもハリマオの配下だった。昭和16年7月に察知し、9月には作戦の概要が明かなっている。結局、「マタドール計画」は不発に終わる。
【『F機関』藤原参謀との初対面】
大東亜戦争開戦2ヵ月前、バンコクにひとりの情報将校が赴任する。のちに「F機関」を率いる藤原岩市参謀(開戦時少佐)だ。
「ハリマオ工作」の名付け親は藤原参謀だった。藤原参謀は、ハリマオ一党の活動を高く評価し、特に谷豊という日本人に興味を抱いた。開戦直前には、タイ南部で直接会う手筈を整えていたが、尾行の危険性があったために止むなく断念している。
2人が対面を果たすのは、開戦のちょうど1ヵ月後だった。場所はマレー北部の小さな村。ハリマオ一党が新たに英軍陣地の後背に向かう直前の、偶然の出会いだった。
その時の模様を藤原参謀は著書『F機関』の中で、こう書き記している。
「なに谷君が待っているのか。おれも会いたかった。どこだ谷君は」(略)私は重い使命を背負わせ、大きな期待をかけている私の部下の谷君に、今日の今までついに会う機会がなかったのである」
「数百名の子分を擁して荒し廻ったというマレイのハリマオは、私の想像とは全く反対の色白な柔和な小柄の青年だった。(略)
私は谷君の挨拶を待つ間ももどかしく、『谷君。藤原だよ。よいところで会ったなあ。御苦労。御苦労。ほんとうに苦労だった』と、彼の肩に手をかけて呼びかけた。
谷君は深く腰を折り、敬けんなお辞儀をして容易に頭を上げないのであった」
(『F機関』176頁)
余りに遜った態度に藤原参謀は驚き、そして、マレー人になりきった過去の境涯をしのんで、いじらしく感じたという。
藤原参謀がダム破壊工作の成功を称えると、谷豊はこう答えた。
「いいえ。大したことはありません。ペクラ河の橋梁の爆破装置の撤去は一日違いで手遅れとなって相済みませんでした。それから山づたいに英軍の背後に出て参りましたが、日本軍の進撃が余りに早いので遅れがちになって思う存分働けなかったのが残念です。
この付近では英軍の電線を切ったり、ゴム林の中に潜んでいるマレイ人に宣伝したり致しましたが、日本軍のためにどれだけお役に立てたことでしょうか」
これに対し藤原参謀は更に労いの言葉をかける。
「『君のこのたびの働きは、戦場に闘っている将校や、兵にも優る功績なんだよ』というと、谷君は私の顔を見上げて眼に涙を浮かべながら、
『有り難うございます。豊は一生懸命働きます。私の命は死んでも惜しくない命です。機関長の部下となり、立派な日本男児になって死ねるなら、これ以上の本望はございません』としみじみ述懐した」
(前掲書177頁)
2人が初対面した時、谷豊はすでにマラリアに冒されていた。
【最終目的地シンガポールへ】
わが日本軍が快進撃を続ける一方で、谷豊の病状は悪化していた。
初めての対面から約1週間後、藤原参謀の元に「谷豊がマラリアを再発し重篤だ」という報せが届く。そして、谷豊と行動を共にしている神本利男に対し、早急にジョホールバルの陸軍病院に移すよう連絡した。
「一人として大切でない部下はいない。しかし、分けてハリマオは、同君の数奇な過去の運命とこのたびの悲壮な御奉公とを思うと何としても病気で殺したくなかった。
敵弾に倒れるなら私もあきらめきれるけれども、病死させたのではあきらめ切れない。私は無理なことを神本氏に命じた。『絶対に病死させるな』と」
(同247頁)
時は1月14日。
シンガポール陥落まであと1ヵ月…
ジョホールバルはマレーシアの最南端の大都市で、海のすぐ向こうがシンガポール島だ。
神本利男は担架に谷豊を乗せて運び、陸軍病院に運び込んだ。その直前、神本は谷豊を抱き起こしてシンガポールの町の灯りを見せた。
「おれのテリトリーはマレー半島だから、シンガポールは関係なしか…」
そう谷豊は呟いたという。
ハリマオ一党の最終目的は、日本軍をシンガポールに進めることだった。谷豊は自らに課せられた使命を無事、終えようとしていた。
【ハリマオ、白い布とともに消える…】
「私は生花を携えて病院にハリマオを見舞った」
藤原参謀と谷豊の再会は、シンガポールの兵站病院の一室だった。陥落から数日のことである。
その前に、藤原参謀は軍政監部の馬奈木少将と直談判し、谷豊を軍政監部の一員として起用することを要請していた。
「見舞いと慰労の言葉を述べると、ハリマオは『充分な働きが出来ないうちに、こんな病気になってしまって申し訳がありません』と謙きょにわびた。
私は『いやいや余り無理をし過ぎたからだ。お母さんのお手紙を読んでもらったか。よかったね』というと、ハリマオはうなづいて胸一杯の感激を示した。両眼から玉のような涙があふれるようにほほを伝わってながれた。
私は更に『谷君、今日軍政監部の馬奈木少将に君のことを話して、病気が治ったら、軍政監部の官吏に起用してもらうことに話が決まったぞ』と伝えると、ハリマオはきっと私の視線を見つめつつ『私が!谷が!日本の官吏さんになれますんですか。官吏さんに!』と叫ぶようにいった。ハリマオの余りの喜びに、むしろ私が驚き入った」
(前掲書269頁)
官吏とは今の国家公務員に相当する。盗賊として日本人からも白眼視されていた谷豊にとって、その処遇は夢にさえ見ることのないものだった。
そして、この日が2人の終世の別れとなった。
昭和17年3月17日。
ハリマオとして名を馳せた谷豊は力尽きた。
享年30。
臨終を見守っていた配下のマレー人が日本軍に求めたのは白い布2枚だけだったという。それはイスラム葬で遺体を包むのに必要なものであった。
谷豊の棺は部下たちに担がれ病院を後にし、シンガポールのイスラム墓地にひっそりと埋葬された…
【英霊となったハリマオ】
その頃、藤原参謀はINA(インド国民軍)幹部をともなって東京で重要な会談を開いていた。
そこで訃報を受け取ったのだ…
「北部マライの虎として泣く子も恐れさせた彼は、マライの戦雲が急を告げるころ、翻然発心して純誠な愛国の志士に返った。彼は私の厳命を遵守して、彼は勿論、その部下も私腹を肥やす一物の略奪も、現住民に対する一回の暴行も犯すことがなかった…」
藤原参謀は、直ちに谷豊を正式の軍属として陸軍省に登記するよう求め、諒承を得る。それによって谷豊は英霊として靖国神社に祭られることが決まったという。
盗賊の頭目となった頃、谷豊は勘当同然となり、日本に戻ったままの家族とは音信不通になっていた。
■家族写真(左が豊)
肉親を捨て、祖国を捨て去っていたのだ。だが戦乱によって、谷豊はごく短い間にすべてを取り戻し、そして英霊となった。
開戦の1ヵ月前、谷豊は九州の母親宛に一通の手紙を書いている。その文面は、たどたどしいカタカナで綴られていたという。
「お母さん。
豊の長い間の不幸をお許し下さい。豊は毎日遠い祖国のお母さんをしのんで御安否を心配しております。
お母さん!
日本と英国の間は、近いうちに戦争が始まるかも知れないほどに緊張しております。豊は日本軍参謀本部田村大佐や藤原少佐の命令を受けて、大事な使命を帯びて日本のために働くこととなりました。
お母さん喜んで下さい。
豊は真の日本男児として更生し、祖国のために一身を捧げるときが参りました。
豊は近いうちに単身英軍の中に入って行ってマレイ人を味方に思う存分働きます。生きて再びお目にかかる機会も、またお手紙を差し上げる機会もないと思います。
お母さん!
豊が死ぬ前にたった一言!いままでの親不幸を許す、お国のためにしっかり働け、とお励まし下さい。
お母さん!
どうか豊のこの願いを聞き届けて下さい。そうしてお母さん!長く長くお達者にお暮らし下さい」
〆
最後まで読んで頂き有り難うございます♪
クリック1つが敵に浴びせる銃弾1発となります
↓
*************
【side story】
谷豊の肖像は『F機関』より接写。また貴重な家族写真は『マレーの虎 ハリマオ伝説』単行本(新潮社)の裏表紙から接写しました。弟・谷繁樹さんからの提供ということです。
シンガポールの病院から遺体が運ばれた後、日本軍関係者で消息を知る者はなく、軍によるハリマオ銃殺説も流れていたようです。
これを粉砕したのが『神本利男とマレーのハリマオ』を上梓された土生良樹さんでした。土生さんはマレーシア北西部に暮らすアブドラ・ラーマン長老を訪ねて昔話を聞き取りました。
■ラーマン長老(左)と土生良樹さん
このラーマン長老こそ谷豊の亡きがらをイスラム墓地に運んだ一人だったのです。ラーマン長老は昭和16年2月から神本利男さんの通訳を務め、行動をともにした人物でハリマオ工作の全体像を知り得る立場にいました。長老はその時、19歳の少年だったそうです。
谷豊の享年については諸説ありますが、土生説を採用しました。
ハリマオ関連書籍としては4年前に大修館書店から『ハリマオ マレーの虎、六十年後の真実』が出ていますが未読です。恐らくラーマン長老の証言を超えるものはもう出ないでしょう。
歴史研究家の岡崎渓子さんによれば、近年マレーシアのテレビ局がハリマオ=谷豊の特集を放映。その番組の最後はこんな言葉で結ばれていたそうです。
「イギリス軍も日本軍も武器ではマレーシアの心を捉えられなかった。心を捉えたのは、 マレーを愛した一人の日本人だった」






この記事へのコメント
谷豊氏も眠る靖国神社、やはり後世の日本国民としておろそかにしてはいけないと改めて思いました。英霊として谷氏を靖国神社にお祭りできたのは何よりでした。
日々目から鱗が落ちるようです。
マレーの虎=谷豊氏。彼のような方が日本の為に命を掛けて戦っていたなんて、全然知りませんでした。いい記事を紹介して頂いてありがとうございます。早速アマゾンで注文しました。このお正月にじっくり読んでみようと思います。
こちらこそ長い駄文を読んで頂き有り難うございます。
この話を知ってから靖国に参拝する時は、ふと谷豊さんの肖像が頭をよぎるようになりました。そうした機会をくれる靖国神社はやはりかけがえのないものですね。
読んで頂き有り難うございます。
今回紹介した本はどれも入手可能で、『神本~』も展転社HPを見ると取り扱っているようです。どれも小難しい本ではないので読み易いと思います。
仰るように、異国に単身渡って子分を集めるなど、並大抵の人物では無理ですね。谷豊さんには人間的な魅力があったのでしょう。ハリマオは自虐史観で見ると軍への協力は謎ですが、大東亜戦争の本質を直感的に理解できた人物のようです。
訳も分からず歌っていたのですが、真実を教えられて日本男児の凄さを改めて感じます。有り難うございました。
こうした史実を知らしめなかったなかった戦後教育は、やはり大問題。
昨日、「藤原(F)機関」を図書館から借りてきました。
藤原氏がバンコック行きを命ぜられた日に、松蔭神社で大先哲の霊前にぬかづいて思慮に拠り所を求めた場面、気持が吹っ切れてからは行動を共にする部下を自宅に招いて、君国のために働くことを誓った場面など、冒頭から泣かせる場面が続きます。
登場人物のいずれにも、現代の日本人には欠けてしまった武士道がみなぎっています。歴史教科書に是非とも載せたい物語です。
「又、戦争したい」と、言ってるみたい。
お母様に宛てた手紙、お母様も嬉しかった事でしょう。
それにしても知らない話が多すぎます。
読むべき本が多すぎます。読むのが遅いからとても追いつかない。
最近の読者です。ブログ主様の英霊に対しての想いが伝わる記事に感動しております。"マレーの虎"の谷豊氏の母への手紙の下りは涙が溢れました。こういった史実が広く国民に伝承されるといいですね。
ブログランキングのクリックがトップページ来たので応援しやすくなりました。
お軀ご自愛の上、更新なされますように。
アネモネ様、毎日応援していますよ。^^
是非とも元旦に初詣をして、感謝の祈りを捧げたいと思います。
中学生の教科書にもこういう話を載せなきゃいかんね。もう敵が来たら無抵抗で逃げまくりの情けない国民が多くなってしまったようだ。
>芭蕉葉さま
こちらこそ、コメント頂き有り難うございます。快傑ハリマオが無国籍イメージだったのは、多少、実在のモデルに引っ掛けてのことだったようです。ドラマがなければ、後に伝記本が出なかったと考えると知名度拡大には役立ったとも思えますね。
こちらこそ、有り難うございます。『F機関』を読み始められましたか…
ハリマオ関係の書籍を調べていて、昭和60年に振学出版から復刊されていることを知りました。検索には引っ掛かって来なかったのですが、そちらも絶版と思われます。最後まで濃い内容で、魅せられると思います。
>隼さま
母親への手紙に、谷豊さんの透明感のある心情が綴られているように思えます。激戦の中に飛び込む覚悟があったのですね…何回読んでも胸を打たれます。
ご支援、ありがとうございます。
ブログで前後編などあり得ないと考えていたのですが、読者様に支えられて、長文が可能だったと感謝しています。ランクボタンがないとのご指摘があったので、はて?と思ったのですが、トップページのことだったようです。
英霊となることで最後に何か救われたように思います。こうした方々の御陰で、戦後の繁栄があったのだとつくづく感じます。靖国をはじめ各地の護国神社に参拝することで、ささやかですが直接感謝の意を捧げることが出来ます。
神になられた谷豊に日本人の魂を
みた。
真の日本人は我らの誇りである。
今年の正月は入手致しました「神本利男とマレーのハリマオ」を読まさせて戴きます。
「真の日本人」…良い言葉ですね。
先人に学び、かくあることを肝に銘じたいと思います。曇りを取り払えば、現代の日本人も変わらないと信じています。
こちらこそ素晴らしいコメント頂き有り難うございます。
著者の土生さんは名作『日本人をありがとう』を書いた人で2冊しか上梓していませんが、こちらも凄い内容です。神本利男さんに関する本はただこの1冊のみ。これ程のスケールを持った日本人がいたとは驚きでした。ハリマオに関する部分は一章ですが、それ以外も衝撃の連続でした。
谷氏のお母様への手紙を読んで涙がとまりません。。。それに靖国に祀られる英霊であったとは驚きです。ブログで紹介させて下さい。
日本たばこ党宣言 主宰者sirou
日本人視点のハリマオ谷豊さんの伝記、大変興味深く拝読いたしました。
谷さんはラヤ独立の英雄で立派なムスリムでしたから、異教である靖国神社に名前を連ねるのは ご本人の意向にはそぐわないと存じますが、日本人として祖国に協力した功績を評価されていることは、きっとあの世で喜んでおられることでしょう。
50年近く心に残っていて、何故か泣けて来る事がありましたが、谷さんの魂が叫んでいたのでしょうね。
30歳の若さで…読んでいて身体の内から熱いものがあふれ出ました。本当にありがとうございました。
2006年に拝読させていただいてから谷豊氏の事は常に意識の中にあります。
私がブログを始めるきっかけの一つでもありました。
ようやく拙ブログでご紹介させて頂く事をご了承願います。
マレーシアのアロースターに行った際に、現地で、福岡の「たにゆたか」を知らない?って聞かれた事あります。「はりまおう」だよ。自分は、架空の人物だと思ってました。
陸軍司令部のあった場所などに案内されました。
外国人は、目立つから早く帰った方がイイとか、自動車で事故を起こすと、警察が来る前に逃げなさい。というアドバイスも。
日本に帰国してしばらくしてから、
NHKの放送で、ドキュメンタリー番組が放送されました。(1話しかないが3回くらい放送を2回)弟さん通しての、谷豊という人物の紹介。
漠然とした内容だった様に記憶しています。βテープで録画してたの覚えています。