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市ヶ谷で諫死を遂げた三島由紀夫が再び脚光を浴びる中、25歳の若さで共に自決した森田必勝の存在を忘れてはならない。烈士・森田が夢に見た祖国日本のあるべき姿とはどのようなものだったのか。 昭和45年11月25日の正午、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニー上から「自衛隊の真の国軍化、日本精神と道義の覚醒」を訴えたのち、三島由紀夫は東部方面総監室に戻り、自決した。 そして三島の介錯を務めた烈士・森田必勝も自決する。 享年25。憂国の諫死である。 それから36年が経った。 「歪みきった祖国の姿」を糾し、両烈士が自らの命をかけて問い掛けた我が国の有り様は、ほとんど変わらないように見える。そればかりか、更に汚れてしまったのではないか? 直木賞作家・中村彰彦氏によってまとめられた森田烈士の遺稿集『わが思想と行動』が4年前、新装復刻された。 そこには森田必勝の高校時代の日記から時事評論、学生代表として全国を行脚した折の演説文などが収録され、思想の軌跡が追える編集内容となっている。 その中に「戦後23年」といった言葉が散見される。生きていた時代の違いを感ずると共に、両烈士の叫びが真摯に受け止められないまま「戦後60年」を経てしまった事実に絶句する。 悲しいことに、森田烈士の直言は今でも見事に通用するのだ。 【射殺覚悟の貝殻島上陸作戦】 ことし8月、ロシアによる不当な漁船員狙撃事件で耳目を集めた小さな島があった。北方領土の南の果てにある貝殻島だ。 38年前の夏、同じ8月だった。 北方領土奪還を叫ぶ森田烈士は、密かに貝殻島への上陸作戦を進めていた。 先に、納沙布を訪れた際に「本土最東端=ノサップ岬」と書かれた標識を見つけて激怒していたのだ。 今もある貝殻島の灯台に、日の丸を掲げる作戦だった。 ボートなどで接近すれば、拿捕されて長期抑留となるか、警備艇の機銃を浴びて死ぬか、いずれかである。 それでも森田烈士は「国際世論を喚起できれば自分はたとえ死んでも日本という国家の礎となることが出来る」と考えていたという。 しかし、未遂に終わった。作戦決行の直前、若者の不振な行動を見かけた現地住民が警察に通報した為だったとされるが、公安がマークし、追跡していた可能性も棄てきれない。 この時、森田烈士が貝殻島に向かって漕ぎだし、不測の事態が起こっていたら、その後の三島由紀夫の運命も変わっていたと多くの評論家が断言している。 「自分の命と引き換えにして祖国を蘇らす」という決意は森田必勝の心の中に早くから芽生えていたのだ。 【ゆるぎない日本をつくる】 昭和20年7月25日、四日市市で生まれた森田必勝は、2歳にして父を亡くし、3歳にして母を亡くしている。苦しい生活を支え、必勝少年を育てたのは兄の治氏だった。後に市議会議員となるこの兄の影響を受けた必勝は、早熟な少年だったようだ。 10代の終わり、浪人時代に記した日記には将来の夢が描かれている。 「俺としては25歳で卒業して三年間新聞記者をやり、三年間誰かの秘書をやる。そして市長になり、二期務めて、こんどは39歳で衆議院に立つ。して三期務めて外務大臣になる。50歳だ。15年間、日本のために、そしてあとに続く日本民族のために、ゆるぎない日本の地位をつくってやる」 「後に続く日本民族」という言葉が10代の口から発せられていることに驚きを禁じ得ない。 上京し、早大に入学した直後から、森田必勝は疾走を始める。 時は昭和41年。70年安保を闘争目標にした学生運動の全盛期である。恐らく、現在とは比べものにならない“政治の季節”だったのではないか。 早熟な森田少年の運命を変えたのが、誕生間もない右派学生集団「早学連」だった。5月のある日、学内の集会で革マル派の議長に単身でケンカを売る男を見つけ、感心して話を聞いた。それが後に各地の右派学生を纏めあげる天才的なオルガナイザーだったのだ。 その年の秋には左翼学生に対抗する日学同(=日本学生同盟)が旗揚げされ、森田烈士も参加する。そればかりか先頭に立って政治活動を率いていくことになる。 99%が左翼に占められた当時のキャンパスで、日学同のような民族派学生組織が誕生したこと自体、奇跡的だろう。そして、それは当時の保守派知識人の代表格・林房雄の目にも留まり、やがて三島由紀夫との交流も生まれる。 日学同の機関誌『日本学生新聞』の創刊号には大作家だった三島もわざわざ激励文を寄せている。 この『日本学生新聞』の全論文を一晩で書き上げた伝説の青年がいたと言う。天才的な文章力と識別眼を持ったその人物こそ、宮崎正弘さんだ。 支那ウォッチャーの中で最も信用に足る宮崎さんは、学生時代から既に揺るぎない愛国者だったのだ。 【YP体制の打倒を叫ぶ】 久しぶりに森田烈士の遺稿集を手に取ったのは、「核の傘」について調べていた時のことだった。その際、漏らした森田論文の一節を掲げてみよう。 「日本が『核武装』すると主張すれば一般国民にとっては非常なショックとセンセーションで迎えられるであろう。 しかし世界情勢に目を転じ、百年先の日本の進路を考えてみれば、むしろ核武装の主張は好戦的でも奇矯でもなく当然のナショナリズムの発露なのである。(略) 日本以外のどの国を見ても「国防」に対する態度が真剣なのである。史上初の敗戦で日本人の感傷は少女趣味に堕していはしまいか。 ますます強大化する列国の軍事力から自らを守るために、現在の戦争の最終段階の『核』戦争にも対処出来る防衛を、いつまでも『米の核のカサ』に頼っている時期ではないのである」 昭和42年11月に発表された「単独核武装はタブーか」と題された論文である。 この論文が出されてから40年近くの歳月が流れたが、我が国には核論議すらもまだタブーだと主張する輩が跋扈している。長過ぎる空白の時間だ。 横断的に組織された日学同と平行して、早大には「国防部」という集団が生まれ、森田必勝ら民族派学生は活動の輪を広げていく。そこではメーンテーマに堂々と「国防」を掲げ、真摯に祖国防衛を論じていることに注目したい。 当時の左派学生の主張は日米安保に反対しながらも米国製の占領憲法を大切にするという矛盾を孕んでいた。このパラドックスに果敢に切り込んだのが、右派の学生だったようだ。 彼ら民族派学生の論調は、既存の右翼とは一線を画し、自主憲法制定と自主国防を同時に打ち出し、日本民族の自立を鮮明にしている。 そのシンボルが「YP体制打倒」という強烈なスローガンだった。 戦後世界体制の枠組みを決めたのは米・英・ソ3国によるヤルタ会談とポツダム会談であり、それを打破しなければ新しい世界秩序の構築は不可能、と喝破したのだ。 明確な反米反ソである。 それまでの日米安保を無条件支持する保守思想界にも風穴を開けるものだっただろう。このスタンスがその後の新民族派(=新右翼)誕生の流れにダイレクトに繋がっているように思える。 森田論文には「日本民族」という単語が、幾度なく登場し、それをキーにして国防が論じられている。 その頃、単に「保守的」と見なされていた天才小説家が「美としての天皇」「わが日本民族」を声高に語り始めていた。 三島由紀夫の登場である。 【過酷な自衛隊訓練に参加】 「英霊の声」を発表し既成右翼から攻撃を受けていた三島由紀夫にとって民族派学生との出会いは、計り知れない衝撃を与えたようだ。 「国防と国体」の劇的な邂逅であったかも知れない。 昭和42年に森田烈士は日記にこう書き記している。 四月某日(日付不明) 「M氏から三島由紀夫さんが民兵組織を作るので日学同、とくに早大国防部から選抜して協力してもらいたいと言ったという。民間防衛隊は大いに結構だし、俺はいつでもやる覚悟はあるけれど、あのキザな三島さんがそれをやるというのは何かチグハグな感じだ」 この時はまだ三島と面識がなかったようだが、既に三島は自衛隊の一部と深い繋がりを築き、訓練参加を取り付けていた。 3ヵ月後の7月に森田必勝は北海道に赴き、北恵庭戦車部隊に体験入隊を果たす。その時どのような訓練をしたのか、殆ど明らかになっていない。守秘義務もあり、後に自衛隊側が学生らの体験入隊を問題視したためだ。 「戦車に乗って…」「45キロの行軍で…」といった書き残しが見出せるが、細部は不詳のままだ。実弾射撃も行ったという証言もあるが、世論の反発を恐れて自衛隊側が封印してしまったようだ。 自衛隊への体験入隊を果たしたメンバーの中から、有名な「盾の会」が組織され、森田必勝は学生長に就任している。 「盾の会」を玩具の軍隊だと嘲笑する向きもあるが、それは自衛隊の説明を受け売りにしたジャーナリズムに原因がある。武器こそなかったが、実際は本格的なレンジャー訓練まで受けていたのだ。 今でも自衛隊はそれを隠しているが、 三島の後見者には帝国陸軍出身の有能が元士官がいて、その頃、陸上自衛隊では重要なポストにいたことが分かっている。 昭和44年2月に森田烈士は日学同を脱退し、祖国防衛の活動に専念するが、日記はこの月を境にぷっつり途絶える。 市ヶ谷の壮絶な最期へ向けて疾走する重要な時期だけが資料として残されていないのだ。本人が自決前に焼却したというのが通説である。 【衝撃を与えた25歳の諫死】 市ヶ谷台での衝撃的な最期と、三島の訴えが格調高く綴られた檄文について語る紙幅はない。後の機会に譲りたいと思う。 特筆すべきは、昭和史の1ページになっている三島事件とは「三島・森田事件」に他ならないということだ。 森田必勝という憂国青年の存在がなければ三島の死は別の形になった。ある三島研究家は「牽引したのは実は森田だった」と論じている。 もちろん三島由紀夫は世界的な文学者で名声も揺るぎなかった。一方で、森田烈士は学生運動家であり、知名度を軸にしたら大きな違いがある。 だが、その祖国への情熱という一点に於いて両者は同じ地平に立っている。 そして同時代の全共闘に与えた衝撃は甚大だったという。 京大パルチザンの指導者は自決を知って「なぜ我々は数で圧倒しながら、ただ一人も命を投げうてる者がいなかったのか…」と嘆き、森田烈士を讃えた。 森田必勝が愛唱した徳富蘇峰のフレーズあがる。 「僕の恋人誰かと思う 神のつくりた日本国」 25年の短い人生を駆け抜けた森田烈士はその言葉通り、ただ一筋に「真の日本」を取り戻すために生き、諌死を遂げた。 また今年も11月25日がめぐって来る。 若き憂国の士が夢に見た「美しき祖国」が甦るのは、いつの日か… 彼の魂の慟哭が止むその時まで、決して諦めてはならないだろう。 辞世の句 「今日にかけて かねて誓ひし 我が胸の 思ひを知るは 野分けのみかは」 『憂国忌実行委員会』 http://www.nippon-nn.net/mishima/annai/ 〆 ランキングに参加しました! クリック1つが敵に浴びせる銃弾1発となります ↓ |
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| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
|---|---|
魯迅を見直す 3、 三島由紀夫との接点
じゃあ愛国心のなにが一番大切な点かといえば、日本の場合は天皇制です、これが肝心なところ。 三島由紀夫(故人ゆえ、敬称ぬきでいきます)が東大全共闘の占拠する安田講堂に単身乗り込んで、全共闘を前に一席ぶったということがありました、もう憶えてる人も少なくなったでしょうが、そんとき三島先生(あ、やっぱりつけちゃった)がこういった、「諸君が天皇といえば共闘できる」ってね。もちろん全共闘の連中にはその意とするところは理解できるはずもなく、ヤジり倒したわけなんですが。これがある伏線であったことは、後にわかりま... ...続きを見る |
マルコおいちゃんのヤダヤダ日記 2006/11/25 07:23 |
| 内 容 | ニックネーム/日時 |
|---|---|
>「自分の命と引き換えにして祖国を蘇らす」 |
平成退屈男 2006/11/22 10:18 |
>平成退屈男さま |
アネモネ 2006/11/22 21:02 |
ぶはwwww |
蓮 2006/11/22 23:48 |
>蓮さま |
アネモネ 2006/11/23 02:37 |
危うく見逃すところでした。あたしもこっちをメインにうかがうことにします。三島烈士については、あたしも『魯迅を見直す』で触れる予定です。アップは25日に設定してあります。森田烈士については、もうアネモネさんが立派に述べてくれました、それに宮崎先生の三島三部作にも詳しいですから、あたしは遠慮いたします。 |
マルコおいちゃん 2006/11/23 22:43 |
>マルコおいちゃん |
アネモネ 2006/11/24 02:37 |
森田必勝の兄の森田治というのは、日朝友好三重県民会議会長の森田治のことでしょうか? 経歴はほぼ同じようですが…。ちなみに日朝友好県民会議はどこの県でも旧社会党系が中心の組織で、共産系よりもチュチェ臭が強いです。 |
K 2007/02/18 13:08 |
同性愛者同士の無理心中じゃないのかな、と。 |
Q 2007/02/19 14:10 |
今日父から森田治先生とは友達だと言うことを知らされ、たまたまその弟の必勝さんと三島由紀夫事件の事を耳にしてこちらにお邪魔しています。その事件についてもっと繊細を知りたいので直接元政治家の治先生と話したいと父にお願いしましたがやはりこの事については本人からはあまり語ってもらえないとのことでした。 |
森田先生の知り合い 2007/09/01 06:52 |
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